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「自分の行先に前もって荷物を送るタイプの人間」と「自分の行先に前もって荷物を送らないタイプの人間」の二種類がいるとすれば、自分は「送らない側の人間」に分類されるだろう。間違いなく。

その理由のひとつとして、自分には、いわば「押されて押されて生まれるオリジナルの形態」への美学があるからだと思われる。

フランシス・アリスのメキシコでの写真作品(とんでもない量の風船を抱えて歩いている行商とか、どんでもない高さまで荷物を積み上げた自転車を走らせている人とかの写真)が好きなのもその美学に即しているからだ。

例えば僕は先月始まった京都の展覧会の準備のために、10日に京都に着かねばならなかったのだけど、その際9日の夜まで制作作業をやっていた。作った木製の什器を自分の手で運ぶために分解して、その部品である長い角材をスーツケースに突っ込んだ。すると、長さ2mの細い角材数本と、長さ1mのツーバイーフォー材が2本飛び出た、冗談みたいな姿のスーツケースができあがった。僕はそれを引きずり、10日の電車に乗った。(きっと「荷物を送る側の人間」たちは、8日ぐらいには制作を終わらせて、9日は梱包・発送作業をして、10日には身一つで京都に行くのだろう。そして荷物を京都で受け取る)

目の前の仕事を一生懸命、締め切りのぎりぎりまでやって、やべーもう出ないと間に合わない!とか言って、取り急ぎ手持ちのバッグに突っ込んで出かけた結果生まれた姿は、作ろうと思って作れるものではない。そこに美学を感じている。

もう一つ「そこには僕も行くのに」という理由が考えられる。

「荷物を送る」ということは、「自分以外の誰かがそこに行く」ということだ。でも「そこ」には僕も行くのだ。二人も行く必要はないじゃないか。

だから僕は「自分が行かないところに荷物だけ送る」ことに抵抗は感じない。その場合、僕はそこに行かないから。「そこ」に行く人間は一人でいい。

そもそもみんな、荷物を送るということは、誰かがそこに行くことだ、ということを忘れていないか?なんか、電子データ送るみたいな感じで荷物をおくってはいないか?荷物がそこへ行くには、ドライバーが車を運転する必要がある。多分このことをみんな忘れている。ドライバーは透明人間になっている。

この問題は、ひいては介護士とか保育士とか、再生産労働者(あるいはエッセンシャルワーカー)など、社会に必要な職業であればあるほど、給料が低いという問題にもつながる。みんな、自分の生活のために人を使うことにそれほど大きな抵抗を感じていないし、なんなら、やってもらって当然だと思っている。

12142125 | 2021 | 未分類 | Comments (0)

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