2013年8月24日 | 

2013年8月24日

「生の嘆き ショーペンハウアー倫理学入門」

ミヒャエル・ハウスケラー 著

峠 尚武 訳

 

 

「哲学的熟考世界の形而上学的解釈とに向うきわめて強力なきっかけを与えるのは、疑い無く死についての知と、これとならんで生の苦悩と困窮の観察とである。しかし、もしわれわれの生が終わりのないものであり、苦痛の無いものであったなら、なぜ世界がこのように存在し、よりによってこのような性質を帯びているのかを問おうなどとは、誰も思いつきもしないであろう。むしろ、一切は自明の事であるだろう。」

ところが、一切は自明でなく、人間に説明を迫るものである。~

 

~したがって、害悪(確実に死に至るという見通しを含めて)と悪業(人間によって惹き起こされる害悪としての)の経験は、他の諸々のうちの何かある1つの任意の経験ではなくて、そもそも哲学的原体験なのである。なぜ世界には苦痛や悲しみがあるのかという事を我々は理解できないし、また、なぜ我々は死ななければならないのかという事も理解できない。実際そうなのだということしか理解できない。しかし、我々の中にある一切はこの理解に不服である。なぜなら、われわれは、その最内奥の本性からすれば、意志、生きんとする意志、存在せんとする意志に他ならないからである。~

 

他人がその意志の(それ自体は正当な)肯定を私の意志の否定であがなうことによって私に加える不正は、世界と、そもそも最初にこのような不正を許す世界の性質・状態とに責任がある事になる。~

~この苦しみを不正と感ずるのであるから、彼は、ヨブが神に釈明を求めたように、世界に釈明を求める。「如何なれば、(神)なやみにをる者に光を賜い、心苦しむ者に生命を賜いしや」この問いは、神を世界に代えればショーペンハウアーの哲学の根本的な問いである。~

~世界には善が多いか悪が多いかなどと議論するのは全く無用の事である。なぜなら、単に悪が現にあるということだけで、事は決するからである。悪の存在は、悪とならんで善があることによっても、あるいは後に善が存在するようになる事によっても、決して抹消されず、従って相殺されもしないからである。なぜなら、数千人が幸福に楽しく生きたとしても、そのことがたった一人の不安や死の責苦さえも解消するものでは決してないからであり、同様に、私の現在の息災がかつての病苦を無かったものにするわけではないからである~

 

生、この「継続される欺瞞」における最善の事は、やはり生が短い事であると思われる。なぜなら、苦悩は生にとって本質的なことであるから、生の延長は苦悩の延長でしかありえないからである。しかもなお人間があまり早死にを求めるわけではないのは、死を(生よりも)さらに大きい悪だと思い込んで死を恐れているからに他ならない。一切の生は苦悩である、というのが酷烈な真理であり、この事はいかんともしがたい。というのも、もしわれわれが、欲求のすべてをいつでも苦労なく満足させる事ができるという幸運に恵まれていたとしても、また、もしあらゆる危険を免れていると知っていて、将来について不安を覚える事無く、過去の思い出に後悔を覚える事が無いとしても、それどころか、それほど恐れている死から逃れる事が出来るとしても、それでもなお、とどのつまり、生そのものは残っていて、われわれは絶え間なく生に苦しむ事になるからである。なぜなら、われわれは本質的に意志なのであり、この意志は決して静止することがなく、むしろやむことなく繰り返し新たな目標を掲げてそこに満足を求めるからであり、しかも、いつかはその満足を見出すという事もー短い、錯覚に陥った一瞬間以外にはーないからである。なぜなら、意志は静止することができず、努力し(求め)続けなければならないからである。~~世界がその被造物に加える不正を否認する事は、それ自体が不正である。かくして、哲学的真理愛のみならず道徳も、苦悩と、次の事実とを妥協することなく承認する事を欲求する。すなわち、この世界は良い世界ではなく、むしろあらゆる可能な世界のうちの最悪の世界である(なぜなら、この世界は、もしもう少し劣悪であったなら全く存在しえなかったであろうから)という事実の承認を、である。~

 

~すなわち「なやみにをる者に光を賜ひ、心苦しむ者に生命をたまひし」ということは、いかなる条件の下で意味あるものとなるのか、と言い換える事ができる。そして答えは、彼らに光と生命を与えたのは(慈悲深い、理性的な)神だったのではなく、盲目的な意志だったのだという条件の下でのみ、意味あるものとなるというものである。~

 

~世界は、それが表れて来るとおりに、不条理、不合理で非理性的であるが、論理的な意味においてそうなのではない。なぜなら、世界は現実にあるのであり、そして現実にあるものは論理的矛盾を宿しえないからである。それではいったい、いかなる意味で世界は不条理なのか。答えはひとえに次のようなものになるしかない。すなわち、世界は道徳的な意味において不条理なのである~~生命を維持しようと試み、しかし次には必然的にそれを失うために、生命を維持しようと試みて全生涯を送るというのは、道徳的に不条理である。~

 

~「あらゆる真の、現実的認識の最内奥の核心は直観である。」なるほど、ある概念はしばしば別の概念に依拠し、この別の概念もまたさらに別の概念に依存しているが、しかしいつかはついに、立ち戻って直観を指し示すような概念が出てこなければならない。なぜなら、さもなければその連鎖の全体が宙に浮かぶものになり、足場を欠くことになるからである。~

 

誰かが同情を覚えるのは、あるいは同情的に行動するのは、「彼が、普通なされているほどには、自分と他者との区別をしていない」ときである、とショーペンハウアーは言っているが。「…自分と他者との区別は、悪人にとってはきわめて大きな裂け目であるが、これは移ろいやすい欺瞞的な現象にすぎないことを、彼(同情者。ショーペンハウアーにおいては、Edle,高潔の人)は悟っている。すなわち、彼は、直接的に、推論することなしに、自分自身の現象の即自態はまた他者の現象の即自態でもあることを悟っている。つまり、この即自態はあらゆる事物の本質をなし、あらゆるものの中に生きている、あの、生への意志であることを、彼は悟っている。それどころか、この即自態は動物にも、自然全体にも広がっていることを、彼は悟っている。それゆえ、彼は動物を苦しめることはしないであろう」。同情とはこのように悟ることそのものであり、推論によらずしてなされ、行動において顕現する直接的な直覚的認識、現象界の個体化(性)を感覚と行動において否定することによって(現象界を突き抜けて)事物の本質に迫る直覚的認識である。~この感情が認識そのものだというのである。~

 

~同情は道徳的には無意味な、たんなる感情ではないのかという嫌疑を晴らし、同情に対して事物の最内奥の本質において拠り所を与え、かくして道徳全体に一切の現象的なものを超出する形而上学的な尊厳を与える。~私が同情的に行動するのは、私が他者と私との本質同一性を認識しているからではなく、ただただ、ひとえに他者が苦しんでいるからである。他者の苦悩ー他の何者でもないーが私の行動の動機である。~

 

~「苦しんでいるのはその人であって我々ではないということを、われわれはいかなる瞬間にも明瞭に自覚している。われわれは我が身においてでなく、まさにその人の身において苦悩を感じ、それを我々の悲しみとしているのである。われわれはその人と共に苦しみ、かくしてその人において苦しむのである。われわれはその人の苦痛をその人の苦痛として感ずるのであって、我々の苦痛であると錯覚しているのではない」~

 

~他者が苦しむ時はいつも、私も彼とともに苦しむ。ところが、苦悩は偶然にときおり表れるだけでなく、むしろ生存の根本体質に属するものであり、かくして生きている全てのものは絶えず苦悩に囚われている。この際限ない苦悩の一切が、他人の苦悩と自分の苦悩をもはや区別しない同情者自身に全面的に襲いかかるので、彼は、単独の人間には堪え難いほどの規模で苦悩を被ることになる。~このような無限に続く苦悩の重荷を背負うと、彼は突然、自分の苦悩に、つまり本質同一性の認識に限界を設けて、自分を守ろうとするようになる。~こうして同情は、恣意的に制限されることなく徹底的に実践される正義と人間愛を展開してゆくそれ自身の力学によって、「生への意志の否定の促進剤」になる。~この転換を全く残念なことだと思い、人間の弱さを嘆くものがいるかもしれない。~しかし、ショーペンハウアーの捉え方は全然こうではない。道徳的なことは彼にとっては自己目的でしかなく、それはまた世界の苦悩を緩和する事によって価値を得るのでもない。この点で人間が行う一切のことは、およそ、熱い石に注がれる一滴の露のような全くの表面的なつくろいにすぎず、可憐と見なされ、注目に値するものではあるが、しかしなにも、いやはや何も、あらゆる生物に取り返し難く定められている永遠の苦悩に変更を加えるものではない。~かくして、同情の価値は苦悩の緩和にあるのでなく、むしろ苦悩を堪え難いものにまで増大させることにあるのである。~

 

~われわれは二種の意味に関わってきた。それらの根底には2つの相異なる、およそ互いに相容れ難い直覚があった。一方に、世界の苦悩の現実性を否認するのは、あるいは、なんらかの方法でそれを緩和、軽減するのさえも、「不埒な」ことであるという直覚があり、もう一方に、この現実は「明らかに不条理なこと」であり、したがって「事物の真の秩序」ではありえないという直覚があった。~苦悩の現実性は形而上学的な救済の秩序のうちの高い地位にあると認められる事によって(矛盾が)止揚されるのである。「死によって完結される労働と欠乏、困窮と苦悩」は今や、もはや、ショーペンハウアーがしばしば印象深く描写したような人類の懲罰としてでなく、むしろ(個人の)生の本来の目的として現れる。「ただ1つ、生得の誤謬がある。われわれは幸福であるために生存している、というのがそれである」。むしろ、我々は不幸であるために生存しているというのが真理である。「人間の生存の全体に、苦悩が生存の真の定めであることが明瞭に現れている。…ここに意図のようなものがあることは見誤るべくもない」。~

2013年8月24日 | 2013 | 未分類 | Comments (0)

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です