9月21日(土)、22日(日) | 

9月21日(土)、22日(日)

 

バイト先のエビスバーの先輩、渡辺さんに誘われて、キャラメルボックスという劇団の公演を見に行った。池袋のサンシャイン劇場。

観に行ったのは「ケンジ先生」という演目で、15年前が初演。渡辺さんはもう18年もこの劇団を追いかけていて、この初演も観に行ったらしい。

観にいって「ラッセンの絵画を観ているような気持ち」になった。また「ラッセン尾絵画を観て泣いている人たちを観ているような気持ち」にもなった。

まず、出てくる俳優が全員、どの場面でもお腹から大きく声をだしていて、力んでいて、僕はずっと「声がでかい」と思っていた。あまりにもずっと大きな声だったから、イライラした。ひそひそ話のようなときも、観客に大きく語りかけるようなときも、お腹から力んで声をだしているような感じ。「そんなでかい声で話す場面じゃないだろう。」という突っ込みを心の中で何回したかわからない。また、設定もちょっと苦しかった。「ケンジ先生」というのは先生のアンドロイドなのだが、これが、あたらしい持ち主の家に来てわずか二日目とかなのに、ケンジ先生を信用しきっている人がいたり、極端に嫌っている人がいたり、ちょっと感情移入しづらいなあという場面が何度もあった。殴りあいのシーンがやりたいだけだろう、という台詞回しとか、ちょくちょく時事ネタ「おもてなし」とか「じぇじぇじぇ」とかを入れてくるあたりとか、明らかに笑いを取りにきている感じとか(しかもその笑いの質があんまり高くない)がいちいち癇に障る。なにか大事なものを素通りしたままストーリーが進められていってしまう感じ、といったら近いかも。「演劇ってこういうものだよね」とか、「ここで笑うよね?」みたいな、共通認識、観客との暗黙の了解のもとに話が進められる。というか。

いままで「演劇とは何か、言葉とは何か、身体とは何か、表現とは何か」みたいなところに取り組んできた劇団ばっかりみてきたから、今回のやつはリアリティが全くなかった。これも演劇と呼ぶのか。と思ってしまったぐらい。

驚いたのは、観客の多さ(どこからくるんだ?)と、ケンジ先生が別のアンドロイドにボコボコにされて(この下りもかなり無茶があったけど)、僕は「あーこういう感動シーンよくあるよねー」みたいに思って、完全にさめてイライラしてはやく終わってくれと思っていたその時に、まわりから鼻をすする音がたくさん聞こえてきて、観てみると、結構な数の人が涙を流していたこと。僕は「え?」と思って固まってしまった。

みんな偉い(?)なあと思ってしまった。ここで泣いてください、ここで笑ってください、というシーンで、ちゃんとみんな泣いて、笑っているのだ。僕は(明らかにむりやり)「笑わせよう」としてつくられた場面なんかで、笑いを返すことができなかった。

これは「古さ」なのか?これは「レベル」の違いなのか「好み」の違いなのか。僕は歩み寄ることはできないのか。

劇の終わり際、僕は渡辺さんにどんな感想をいえばいいのか、ずっとそれを考えてしまっていた。渡辺さんはこの劇をたぶん楽しんでいる。そして、よかれと思って僕を誘ってくれた。僕は「渡辺さんが楽しんでいるなら、それでよいじゃないか。僕が下駄なことを言って、わざわざ楽しみを奪うようなことはしないでいい」と思った。考えた末に僕はひとことだけ「エネルギーがすごかったです」といった。嘘ではない。役者の声が本当にでかかったから。

渡辺さんとはまだ「この劇はだめだった」「この作品はすごい」みたいに腹を割ってはなせるような関係ではない。僕にもう少し勇気があれば、あるいはもっと仲が良ければ、この「わかりあえない感じ」の話題について話ができたかもしれないのに。それが悔しい。

演劇とかダンスとか音楽とかには、「観客にみせるタイプの表現」と「観客を連れて行くタイプの表現」の2種類あるとおもっていて、これはもう圧倒的に前者だった。解釈の余地がなさすぎてつまらないほどに、物語は完成されており、あとはそれをいかに完璧に役者が演じきるかにかかっている。作品の完成度はそれだけにかかっているような、演劇だった。

みせるタイプの表現は、観客は消費者としての側面が強い。

つれていくタイプの表現を楽しむには、観客に「ついていこう」という能動的な気持ちが必要になる。

いつだったか、渡辺さんに「演劇好きです」といったから、声をかけてくれたんだと思う。渡辺さんも「演劇好き」には違いなかったから。

でも、「演劇」とかっていう”総称”は何も指さないなと思った。「演劇好き」と「キャラメルボックス好き」は違う。ていうか俺は「演劇」が好きな訳じゃない。そもそもそんな区分けはどうでも良い。俺が良いと思えるものは「素通りできない何か」と捉えようとしているかどうかにかかっている。観客に、ただの傍観者、消費者であることを許さない態度をとっているかどうかである。

22日にみた遊園地再生事業団の「夏の終わりの妹」は、考えるのをやめたら、観るのをやめたらあっという間においていかれてしまうような「つれていくタイプ」の表現だった。

こっちは感想を文章にしづらいけど、とても良かったと思う。

ステージが縦に5つに割れていて、そこにひとりずつ役者がたっている。役者は5つのステージを舞台上で横断することはない。ずっとそれぞれの場所で台詞をしゃべり、身体を動かす。

たぶん「断絶」が重要なテーマになっている。コミュニケーションの不可能性と、「演劇」「口語劇」に対する問いかけ。聞くことと、答えること。役者と言葉の断絶。「いわれた言葉」と「いった人間」の断絶。

それぞれの立場で、それぞれがたっているステージで、できる限り動くこと、踊ること。5つのステージの境界を超えると、言葉が文節ごとに分解されて再構築されて発語される。それぞれの体はそれぞれのステージから出られないけど、言葉はどんどん横断する。横断した言葉がときどき分解再構築される。

最後はみんな合唱していた。

隔たれていても、諦めずに発語し続けること。

 

劇の後半、照明がかわったとき、舞台上に「何か」が降臨してきた時間があった。舞台上の人がとても大きく見えて、自分と舞台との距離がわからなくなる時間があった。この時は凄まじかった。

9月21日(土)、22日(日) | 2013 | 未分類 | Comments (0)

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