12021644 | 

美術について、バイト先の人たちに説明したあとの、「はあ」みたいな顔をされたときの無力感が尋常じゃない。この感じ、久しぶりに味わった。「デザイン」と同義語だと思っている人もいた。まあそんなもんなんだろう。僕がいくら「いま美術家として個人事業主になっていて、4月までにお金がいるから、ここでお世話になっている。」という話をしても、基本的にみんな「将来は画家になる人」みたいな認識から逃れられない。彼らの言う「将来」は多分いつになってもこない。その人が何者なのか、を考えるときに「それだけで生活費を稼げるか否か」という基準を多分無意識に適用しちゃっていて、いま現に目の前に「作家」を自称している人がいるのに、「将来は~」という風になってしまう。その人がアーティストかどうかって、「それだけで食っているか否か」では、断じてなくて、その人が、自分は作家であるという自覚を持って社会と向き合っているかどうかで決まるものなのに。でもみんなに悪気があるわけでは全くない。こっちの人は、東京人と全然人柄が違って、みんなとってもピュアで、他人の心配事を、自分のことのように考えられる人ばっかりだ。すくなくとも僕が今のところ会ったひとたちはほとんどそうだった。例えば職場のある人が、新しく仕事をはじめようとしていて、そのために、まず先方にお金をいくらか(それも小額ではない)振り込まなきゃいけない、という話をききつけたみんなが「それは絶対に怪しい」と、心底心配そうにアドバイスしているのをみて、僕は最初「そりゃー痛い目みそうだなー」くらいに思っていたくらいだけど、なんだかみんなといるうちに「俺ももっと心配した方がいいのか」という気持ちになる。ということがあった。とにかく、みんな、東京の人々のようには毒されていないという感じがする。最近、佐々木中さんの「切りとれ、あの祈る手を」という本を読み始めたんだけど、それが、その冒頭あたりに


ジル•ドゥルーズの力強い言葉がありますね。「堕落した情報があるのではなく、情報それ自体が堕落なのだ」と。ハイデガーも、「情報」とは「命令」という意味だと言っている。そうです。皆、命令を聞き逃していないかという恐怖に突き動かされているのです。情報を集めるということは、命令を集めるということです。いつもいつも気を張りつめて、命令に耳を澄ましているということです。

そこで「命令など知らない」ということはできないのでしょうか。命令を拒絶することはもはや不可能になったのでしょうか。

目配りがいいということに価値を置かないし、知っているということにも価値を置かない、情報を遮断する。すると、端的に何をしていいのかわからなくなる。どこにいくのかもわからない。命令を聞かないんだから何に従っていればいいのかわからない。かといって自分の命令というのは聞けない。誰とも知らない他の誰かの情報に、すなわち命令に従っていれ楽なんです。何故なら、その命令は自分では変えられないから。自分からの命令というのは自分で変えられる。所詮自分ですからね。すると当然はっきりとした目標に向かって真っ直ぐに進むということができなくなる。地図なしで異国の森をよろめきながら彷徨っているようなものです。どこに行くのかもわからず、ぴしりと足下で鳴る小枝の音を心細く聞き、不意に茂みからけたたましい声とともに飛び立つ鳥たちの羽ばたきに狼狽するーみっともないし心許ないし情けない。どころか苦しいわけです。外部の基準が何もないということは、要するに他人から見ると何もしていないということになります。この時代に何もしないで呆然としているというのは、許されないことをしているのではないかという罪悪感にも似た何かに責められることになる。


とある。
読み始めた瞬間から、心底「いまこの本を読めて良かった」と思った。東京にいると、どんどん新しいものが入ってきて、それを見聞きするたびに、僕の中だけで育っていた何かが「軌道修正される」感じがあった。いろんなイベントや展覧会や飲み会やインターネット(いま住んでいる家にはインターネットを引いていない)や町に響く声や広告や景色あらゆるものが情報となって、「そっちじゃないよ。こっちだよ」という風に、僕に向かって「命令」してくる感覚が、確かにあった。自分以外の判断基準を失い、善も悪も右も左も分からなくなるくらい没入するためには、そういう命令、というか雑音を遮断しないとだめなのだと思う。このあたりのことは、ドゥルーズの思想にもヒントがあるっぽい。今度読んでみる。

12021644 | 2013 | 未分類 | Comments (0)

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です