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信号機や歩道橋に、時々うんざりする。意識的に正気を保ちながら職場に向かって歩いている。ニーチェやショーペンハウアーの言葉を反芻して、ウディガスリーやボブディランの歌を聞きながら。やっぱりこの、生活をさせられている感じが息苦しい。僕が家の絵を書いている最中、僕と家の間を無数の車が、その多くは貨物を積んだトラックやコンクリートミキサー車などだった。絵を描いている最中に1000台以上は通っただろう。このときの時間の流れが、彼らと僕とでは明らかに違う。囲われた海に放たれて「自由に泳いでいいですよ!」といわれて、多くの人が喜んで泳いでいる。25過ぎたら仕事が楽しくなってくるもんなんや、という人がいたけど、それは自分を納得させるために言っているようにも聞こえる。まわりに対してそう伝えることによって、この世界にそういう自分を定着させようとしている。自由は意志のあとについてくるものだ。あらかじめ与えられた自由は存在しない。「自由」を与えられた時点で、そこから自由が奪われる、自由が逃げて行く。「あなたは何の宗教ですか?」という質問と同じだ。自由に答えられるように見せかけて、この質問は、自分が信じているものを「宗教」のひとつだと考えることを強制する。「それ面白いね」っていうせりふも同じようなもんだ。使い方を注意しないと、これはすぐに侮辱の言葉になる。「面白い」という言葉のなかに、状況を回収してしまう。
あらかじめ決められた振り付けで、ながいあいだ踊らされ、それが楽しいと思えるようになっていくこと。それはオーウェルの「二重思考」とどう違うのか。いつか映像で見た、学生団体のダンス合宿のことを思い出す。何十人かで泊り込み、共同生活をして、ひたすらダンスの練習をする。どこかの大会に出る練習をしているのかと思いきや、違う。合宿最終日に、その合宿メンバーだけで「本番」を踊る。観客は一人もいない。本番が終わったら、何故かみんな感動して泣いている。これが馬鹿にできない。僕たち自身がそんな状態の真っ只中にいるかもしれない。この世界でのべつのありかたを想像する。一番冴えた正気は、発狂の直前にあるのかもしれない。そのぎりぎりの正気を。問題を、救いを、夢を、来世や、次世代や子供に託すな。天国や極楽浄土に求めるな。別の世界ではなく。この世界での別のありかたを想像する。

01211028 | 2014 | 未分類 | Comments (0)

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