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僕たちは、選択の余地なく、気がついたら生み落とされているのに、死ぬことは受け入れなくちゃいけないのだから、最初から理不尽の中に投げ出されている。だから何のことはない。怯える必要も怖がる必要も諦める必要もない。僕たちは一人で死ななければいけない。つまり僕とあなたの間には断絶があるということ。決定的な、深い深い断絶だ。だから、人の苦労と自分の苦労を比べて、どっちのほうが苦労してるか等という話はしてはいけない。できない。これから生まれてくる子供の方は僕たちよりも苦労するので、苦労させたくないから生まないとか、ある世代の方が若い世代よりも苦労しているだとか、そういう理屈にはならない。そんなことよりも、この死ぬまでの束の間の交流を、この短い永遠をみんなで楽しもうっていう、そういう態度の方が粋だと思うの。
「プレゼントをうけとる」っていうのもひとつのプレゼントじゃないか。プレゼントしてくれた相手に対する。だから、プレゼントをする方もされた方も、相手に感謝をするべきだと思うの。お金も同じだ。なぜ商品やサービスを提供する方が、お金を払う方に敬語を使わないといけないのか。「受け入れる」っていうのは、能動的なことでしょうが。

ここ数日、なんだか余裕がなくて、日々きつくなっていて、原因はなんだろうかと思っていた。で、このあいだ近くに古本屋をみつけて、入ってパラパラといろんな本をながめていたら、昔の芸術家たちの素描集(ダヴィンチとか)をみつけてひらいた時に、その印刷された素描から、心地よい風がふいてきて、ふと胸の風通しがよくなったような気がして「ああ、足りないのはこれだったか」と気がついた。そこで今日、じつに二ヶ月ぶりに美術館にいってきた。高松市立美術館の常設展。
田中敦子の「電気服」が展示されていて、これが良かった。たくさんの電球が服みたいにたくさんぶらさがっているのだけど、その電球が、アクリル絵の具でいろんな色に塗られていて、ときどき電球がいっせいに点滅すると、そのカラフルな光で展示室がちらちらとにぎやかになる。
この、「絵の具で塗られている」のが、すごいなと思った。田中敦子はやっぱりペインターなのだなあと。光って、昔から視覚芸術にとってとても重要なもので、色が違ってみるのも、ものが形をもってみえるのもすべて光を目が認識するおかげで、だからこそ絵画が生まれて、光に対する言及がいつの時代もあって、いまの現代美術もそうやってあるんだろう。そんな光がちかちかする電気服の電球が、絵の具で塗られているのだ。自身の、ペインターとしての文脈をひろいつつ、テクノロジーとしての絵画。インスタレーションとしての絵画のような、新しい道をきりひらいた、田中敦子にとって1つの飛躍だったに違いない作品だった。電気服。
他にもさわひらきの「eight minutes」(これはちょっと、展示の仕方が残念すぎだった。とても良い映像だったのに)とか藤本由紀夫の「music dustbox」(鑑賞者がねじを回したオルゴールが、ゴミ箱の中に吸い込まれていくインタラクティブな作品。東京都現代美術館にもコレクションされているears with chairの人)とか池田亮司の「data.scan」とかが印象に残る。この美術館がコレクションする現代美術の傾向というか、つくろうとしている文脈がすこしわかったような気がした。田中敦子の「電気服」が展示室の中央に展示されていて、それが放つ光が、他のすべての作品にあたる。宮島達男の作品もあったりして。
このあいだの企画展も、高木正勝さんとかスプツニ子さんとかトーチカとかが主に出品していて、傾向が似ているなと思った。
「電気服」が切り開いた時空を、それぞれの作家たちが押し進めていったように見える展示だった。展示の仕方が雑すぎるけれど。。あと「戦後の讃岐漆芸」という展示でみた作品も、良いなと思うのがたくさんあった。

02122527 | 2014 | 未分類 | Comments (0)

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