4月26日

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(翌朝撮影)
今日は西荻窪に住んでる友達のマンションの駐輪場に家を置かせてもらう。

西荻に行く前に、家は中野に置いたまま、展示を二つ観にいくために外出(家を置いたもま外にでる事)する。
一つ目はギャラリー間でやってた乾さんの研究室の展示「小さな風景からの学び」
これは疲れた。。展示を観にいくつもりで行ったのかちょっと間違いだったかもしれない。展覧会としては全然良くなかった。写真が小さすぎ&写真同士の間隔が狭すぎで、一枚一枚の写真が頭に入ってこない。ただ、膨大な写真を分類しました。というだけの作業量をみせられた感じ。すごい作業量だと思うし、この分類をやった学生たちは、引きだしが増えて今後設計する糧になると思うけれど。。それで?っていう感じ。最終的なアウトプットは、映像とかのほうがよかったんじゃ。それか、この作業をやっと人と一緒に観るべきなのかもしれない。そしたらいろいろ話ができただろう。
見ているうちに、動機が激しくなって、体がだるくなってしまって。一枚一枚をみたいのに、他の写真が視界に 入ってきすぎて全く集中できない。分類したという作業そのもののを量として置いただけの展示。これをやった当事者たちは、この会場で何時間も話ができるだろう。その議論こそを見てみたかった。

その後国立新美術館で中村一美展。存在の鳥と題されたシリーズがずらっと並んだ部屋があるのだけど、そこがやばかった。民芸品を並べたような雰囲気。鳥の図像の絵画。
カタログをめくっていると「飛翔しないものは存在ではない」という言葉があった。ポロックなんかのモダニズム絵画は、単なる画面の構成としての 絵画の枠を出ない。そこには飛翔がないとした宣言から、画家としての制作を始めている。なんとなく古臭い感じは否めないけれど、作品点数の多さと絵の大きさに圧倒される。

その後中野駅で人と会い、5月4日放送予定のテレ東の番組の進行表を見せてもらう。僕は7日にたまたまカメラに出くわして、VTRで出ることになったのだけど、その進行表に書かれていた僕の紹介に「奇人」と書かれていて、吹き出しそうになった。
奇人か。そうなっちゃうのか。だれか個人が悪いわけではないのだろう。テレビというメディアの体質の問題なのだと思う。面白い人を見つけて、それを多くの人に紹介したいという気持ちが最初にあるはずなのだけど、それをテレビでやる以上、いろいろと、視聴者にわかりやすいように(時に過剰に)噛み砕くように編集をしないといけないんだろう。

同じような理由で僕は「娯楽(エンターテイメント)」という言葉が嫌いだ。それをやっている彼等は、彼等の人生をかけて、命をかけてそれをやっているはずだ。それを平気で「娯楽」呼ばわりするのは失礼だと思う。彼らが命をかけてやっている以上、こちらも誠実に受け止めなくちゃいけないと思う。
本当にそれを楽しんでいたら、「娯楽(エンターテイメント)」なんていう言葉は出てこないはず。
僕は僕が好きな音楽や映画を「娯楽」とか「趣味」とか呼びたくない。僕はもっともっと切実な理由で音楽を聞いて、映画を観ているつもりだし、それは死なないためにでさえあると思ってる。

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道中、電線がごちゃごちゃした一角を見つける。

Posted by satoshimurakami