5月15日 | 

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石岡から水戸に行く途中に寄ったそば屋さん。水戸街道沿いの工場が立ち並んでいる中にあって、トラックの運ちゃんとか作業着を来た先輩と後輩みたいな人たちが食べてた。僕みたいな私服の客は一人もいなかった。
となりのテーブルの2人組が
「お前こんな暑いのにあったかいの頼んでどうすんだよ。」
「はい。失敗っすね」
と話していた。良いな。

今日も「将来は美術家ですか?」とか「その経験は将来の財産になるわよ」とか言われた。将来ってなんだ。そういう言い方での将来は永遠に来ない。
「いや、いますでに美術家です」といったけど。
旅って聞いただけで、なにか過渡期的な、若さとか、未熟さみたいなものと結びつけて考えがちなんだと思う。弟も今日からどっかに旅立つらしい。そこに何かを求めるんだろう。
この制作活動を旅といわないほうがいいのかもしれない。旅と言ってしまったら誤解される気がしている。「自分のホームと一緒に動いているから、いくら歩いてもどこかに”移動”している感じがしない。動いてる感じがしない」と前にも書いた。
あるいは展覧会という、とりあえずの目的を定めてしまっているから、旅のように見えるのかもしれない。でも仮に今回の展覧会を終えても、そこで何かが終わるわけではない。いわゆる定住スタイルに戻って、それに疲れたらまたこうなるかあるいはまた別の在り方を考えたりして、またそれに疲れたらまた別の在り方になる。そんなふうにあれたらと思う。「別の在り方になる」が多分キーワードだ。
明日水戸に着く予定でいたけれど、今朝石岡を出たのが早かったので今日行っちまおうと思った。30キロくらい。
これがちょっと認識があまかった。30キロは無理があった。普通に歩きつづけられれば7時間くらいで着くんだけど、途中で疲れたりして休んでるうちに10時間くらいかかってしまって、水戸のまちに入ったのが5時くらい。もう満身創痍で、お寺もしまってるだろうなあ今日の家の置き場どうしようかなあと思ってふらふらと歩いてた。
みんな声をかけて応援してくれたり差し入れをくれたりするけど、いざ自分の家の敷地に一晩、てなるとうーんとなる人がほとんどで、そういう反応を何回かみると、こっちもそれを切り出すのをためらってしまう。そりゃそうだ。自分のテリトリーというか縄張りというか、そういうスペースに今日会ったばかりの人を入れるのは結構勇気がいるのだ。

もう体が動かなくなりそうで、あと30分歩くのが限界だな結構やばいなと思ってたら、突然後ろから
「すいません〜」と呼ぶ声がして、振り返ると子供が何人か寄ってきて、
「追いついた〜。ちょっと家を見せてもらってもいいですか?」
とそのお母さんらしき人。
「どこに向かってるんですか?」
と聞かれたので
「いまそれを探してるんですよ」
と言ったら
「あ、例の庭先とかですか?」
と言う。
「よく知ってますね。」
「新聞でみたんですよ。もしよかったらうちでもいいですよ。」
なんということだ。ちょっと嬉しすぎて耳を疑った。
「トイレとかお貸しすればいいですかね」ということで、そこにいくことに。泣きそう

その人(川俣さん)の家の駐車場に家をおかせてもらい、向かいに住んでる堀口さんがそこにコールマンのイスとテーブルを持ってきてくれる。

そこでなんと両家合作の唐揚げカレー(川俣家のお皿に堀口家のカレーがのって、川俣家の唐揚げが添えられてる)をいただく。すごい。向いあう家が一緒につくったごはん。




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夜は5歳のよしくんと遊びながら小6のひろくんが宿題をやってるのを眺めたりする。

 

今日人とやりとりをしていて「宿泊先を見つけることもプロジェクトに含められるように見受けられますが」と言われる。久々に緊張感のある問いかけをされた。言われてみれば確かに含まれてる。もしこの生活が、そこらの路上に無断で(要するにすこしでも法に触れそうなことをして)家を置いて野宿とかしながら絵をかくようなものだったら、その絵には説得力を持たせられないと思う。いままで1日も欠かさずに誰かの敷地を借りながら移動してきたから気がつかなかったけど、もし誰の敷地も借りられずに夜を迎えてしまうような日が来たら、その日は絵を描かないほうがいい。

5月15日 | 2014 | 未分類 | Comments (0)

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