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今日は足場材に黄色いペンキを塗るという仕事をした。久々に「労働」の時間を過ごした。そして、やっぱりすぐに飽きちゃう。数時間しかやってないのに。そして社長の息子さんの小3の男の子が 「村上さんの家にいたずらしたらダメだよ。村上さんを怒らせたら、ナイフもって刺しにくるんだよ」 と言ってた。なんだそれ。いつからそんなヤバい人になったんだ。

誰かと話してるとして、その人が知ってる人か知らない人かっていう区分けがどうでもよくなりつつある。知ってる人だろうが知らない人だろうが、話す内容はほと んど同じようなもんだ。最近は。自分と他人との境界線がどんどんなくなっていくし、もっというと他人と他人の区分けも時々なくなる。1日に何十回も同じ事を説 明していると「同じ事を説明する」っていうことがもう日常のものになって、同じ事を説明することに対する抵抗もなくなっていく。かろうじて他人AとBをわけて くれるのは、その人が積んできた経験値だ。今日も昨日と同じように、社長に誘われて晩ご飯をたべに行った。メンバーは、東京から社長にバイクを届けるために車で来たごつい人と、トンネル掘りの仕事→ス マホアプリの開発会社→iPhoneの部品の設計会社という不思議な職歴を辿って、いま再び故郷の山田町で復興のため土木の仕事に就こうとしている兄ちゃんと、社 長と、社長の子供二人。そんなメンツで一緒に食べたり飲んだりしてると、もう誰がどうつながってるかとか、誰がいつからの知り合いかとか、そういう情報がもう 全然どうでもよくて、この人の生き方かっこいいなあとか、この人はちょっとこわいなとか、退屈だなあとか、そんなことしか考えなくなる。「生き方」に直接かか わる話しか耳に入ってこない。それ以外の会話は退屈に感じる。
トンネル掘りの仕事から始めていまiPhoneの部品設計してる兄ちゃんは
「学歴が良いやつには負けたくないって、それだけの気持ちでプログラマーになったんだ」
って言ってた。そこは強烈に覚えてる。リアルな台詞だった。

でもやっぱりどうしようもないくらいに話が噛み合ないところはある。ていうかもう僕自身が「話しても通じないだろうな」っていうちょっと諦めの気持ちがあって ちゃんと話そうという気持ちも薄まってる。もう人からどう思われようと本当にどうでもいいって心から思えるようにならないと身がもたない。ていうか僕の話なん かどうでもいいから、ただみんなの話を聞いてるだけの置物になりたいというのが正直なところだった。
なんで「難しい話はわかんない」って感じになっちゃうんだ。僕は別に専門的な話をしてるわけじゃない。生活って、あらゆる人が関わる泥臭いことがらだと思うのだけど、「生活のしかたをちゃんと見つめないといけないと思ったんです」は難しい話でもなんでもないと思うのだけど、一回「難しい話」にされちゃうともうみんなシャットアウトしてしまう。
僕は何のひねりもなく普通に素朴に、生活とか家とかのことを考えてやってるつもりなのだけど、なぜか難しい話と受け取られる。全然わからん。
でもこの「話の通じなさ」を感知できるというのは良いこと だと思う。美術のスターが一般人のスターになれないの は嫌だから俺がなってやるんだって友達の作家が言ってた。それはいますごく具体的に感じるこの「話の通じなさ」とも関係してるんだろう。いつも一生懸命に 人と向き合ってたら身がもたないってことがよくわかる。一生懸命向き合ってくれる人には向きあえ ばいいし、向き合っても向き合ってくれない人には向き合わなくていいんだ。やっぱり人は平等じゃないし、わかりあえないことなんかそっちゅうだしな。「話が通 じない」ってことは『「話が通じない」ってことが通じない』ってことだから、わかりあえるわけがない。寝ればいいんだもう今日は。今日は自分の家でねる。

Posted by satoshimurakami