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朝、PARADISOの店内で目覚めてぼーっとしていたら。男の子が二人現れた。兄弟らしい。
「デュクシ!」
という擬音を発し、兄が弟にむかってパンチしていた。ああ、その擬音語なつかしいな。僕はわかるけど。なんでわかるんだろう。日本語圏じゃない人が聞いたらなんのこっちゃって感じの擬音だ。千葉からケータリングに来ている人の子供らしい。この店の2階はオーナーの別荘的なプライベートルームになっている。昨晩は結構な人数に人たちが2階で宴会をしていた。

いまそのオーナーが来ているらしい。昨日僕が話した人はオーナーじゃなくて店長だった。ここのオーナーはこの店以外に20軒ちかくの店を持っていて、波に乗るためにサーフボードをもって世界中まわってる人。
そこに来ていた僕より1つ年上のスケーターのにいちゃんがいろいろ話してくれた。そのオーナーの友達で60カ国以上を旅している人もいま来ていて
「その人はヤバいです。斜め上をいっててやばいです。」
と言っていた。別の人から40代後半で「エンドレスサマー」をテーマに車とか家とか電話とか全部売り払って解約して、サーフボードとパスポートで世界中を数年まわりつづけてる人の話も聞いた。いろんな人がいるなあ。ここにいると「自由」という言葉をよく聞く。自由と健康とお金を手に入れて世界中をサーフボードと一緒にまわりたいって人がいた。すてきだ。それが自由なのかどうかはわからないけれど。

店長が
「今日は雨だから明日出発にしなよ」
と言ってくれたので、今日は動かないことにした。家をお店の中にいれた。動かない日はたいてい踊りたくなる。だから砂浜におりて一人で踊った。夕方、日の沈む直前から沈んだ直後にかけて。僕の他に、その広い砂浜には誰もいなかった。恋のダイナマイトダンスという曲を聞きながら砂浜で裸足で踊っていたら、足跡がどんどん残っていくのが面白くてますます踊った。踊っていると、何かいまこの現実の表層よりもずっとずっと奥深くにある何かにアクセスできる。遠い場所に自分を飛ばせる。たまには踊って、あの場所にアクセスしないとだめになっちゃう。砂浜でみんなで踊って、その踊った足跡を写真に残して家に飾りたい。

茨城でウランが検出されたニュースで、今まで歩いてきて「今日の線量」みたいな看板が普通にまちなかに立てられてて「ああ、これだけ普通になるとそういう感じになるよなあ」って思ったり、もうどう飛んでいてどこに溜まっているのか全然わかんないんだろうな。違和感とか危機感とか不安とか疑問とか、ずっと慣れないままだと生きていくのに不便だから。慣れちゃいけないことも慣れてしまうようにできてるんだけど。忘れたくないことも忘れてはいけないことも忘れるように脳みそができているんだけど。でも絶対に忘れてはいけないことも慣れちゃいけないこともあるはずで。そういうものがあることはわかっちゃいるんだが、忘れてしまうし、慣れてしまう。そんなもんなんだ。忘れたくないと強く思っても、この事態には慣れちゃいけないとどれだけ強く思っても。福島で出会った彼らはそれぞれの放射能との付き合い方をしていた。そういうものなんだそれが生き残る戦略なんだから。「慣れるな」とか「忘れるな」っていう言い方だとどうも地に足がついてない感じがするんだ。人は慣れてしまうっていうことを前提に考えないといけないんだ。だって忘れるし、慣れるようにできてるんだから。
「自分はどんな酷い事態にも慣れるし、おおきな震災も事故もぜんぶ忘れる」ってことをまず引き受けないといけないな。
その上で、慣れて忘れたとしても、考えることをやめないためには、「自分がその事態に慣れている」ということを意識しつづけるためには、やっぱり変わりつづけるしかない。いつもと違うズレを、いつもの日常の中に取り込みつづけるしかない。変化することを日常にすることで、いま自分がどういう状況にいるのかを考えるくせをつけないといけない。そうやって日常を終わらせていくしかない。その変化が日常に取り込まれる前に逃げる。それを繰り返すしかない。

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Posted by satoshimurakami