2012年5月8日(火)無題 | 

人が生活するためには、どうしても雨風を凌いで寝泊まりするための家がいるんだけど、その家ひとつひとつの安全性を担保したり、「住所を持つ」というルールを決めたりしないと、この社会を継続するにあたって不安材料になってしまうから、家を作る資格がある人を社会的に決めなければいけなかった。
だから、いまの持ち家や、土地の所有という考え方は、人が生きて幸せになるためというよりも、この社会を継続するために考え出された仕組みであって、この膨らみすぎた経済をまわすために、僕たちは家賃を払っているのか。自分で転がし始めた玉の上に乗りつづけるのに必死になることを強制する。

僕がいわゆる設計の道をそれていったのは、人が住む家、場合によって人生の多くの時間を過ごす家を、他人の自分が設計して、責任が取れるだろうかって考えしまったから。そして、責任を取れる自信がなかった。
たくさんの時間をかけて、考えて、手を動かして完成させた設計だとしても、それがどんなに、施主の生活に寄り添うようなものであると自負できたとしても、自分じゃない他人に対して、ここに住んでくれ、と、押し付けるようなことはできない。
地震が起きて、家具が倒れたりして、中の人が死んじゃったりしたら、それは自分の責任じゃないと、きりすてることはできない。それが工芸品にしてもそう。僕は人に使ってもらうものを作ろうと考えはじめると、どこかで、自分とは切り離して「他人のため」という変なフィルターをかけて考えてしまいロクなものにならなかった。作る相手を自然に自分に設定できれば、良いものになったかな。

2012年5月8日(火)無題 | 2012 | 未分類 | Comments (0)

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