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大分在住の珈琲娘のさくらに連れられて「カモシカ書店」に来た。



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古本と新書を置いてある本屋で喫茶スペースもある、めちゃ居心地の良い場所。オーナーが僕のことを知っていた。そこで手に取った荒川修作と藤井博巳の対談集「生命の建築」を読んだメモとして書いておく。

荒川は「空間」のことを「私たちの目の前や後ろにあり、上下左右がある”透明なフィールド”」「(壁や天井で囲まれていることによって)すでに与えられたもの」とは考えていない。それはいずれ自然科学が進めば、たまたま透明だっただけの、ただの物質に還元される。彼にとって空間とは、身体の行為によって生まれたり殺されたりするものらしい。
そして彼にとって身体とは「変える事ができるフレーム」らしい。
「ただし、これだけめちゃくちゃな状態になってしまっているこの世界では、身体のフレームを変えることはできないので、身体の使い方から変えていく。そしていずれ身体のフレームを変えていけばいい」
らしい。また日本人は古来から「おばけのようにうつろい住む」民族なので、暮らしは「仮のもの」であり住宅は「どっちみちすぐ消えていく、仮設のもの」であるとする思想が身に染み付いている。だから「建築する」ことや「住宅を構築する」ということが何故必要なのかわからないっていうのが多くの日本人の本音だと思う。うつろい住む民族なので、体系化された思想が育たない。むしろわざと育てさせないようにしている。なのでこれからは「住む」ということを徹底的に考え直さないといけない、と彼は考えている。
そして彼によれば、人類が誤解している最も大きなことは「時間と空間」らしい。空間はわかったけど、時間も同じように考えられるとしたら?時間も身体の行為によって「生まれたり殺されたりする」ものだとしたら?こんな面白いことない。僕自身がいま「過去も未来も、近いも遠いもない。全てが同じ箱の中にごちゃっと入れられている、なにがなんだかさっぱりわからない状態」になっているのは、全てここから説明がつくのでは。様々な情報がこのからだに記憶されているような感覚。”出来事”や”場”をからだの中に取り込んでいっているような感覚に説明がつくのでは。

12182010 | 2014 | 未分類 | Comments (0)

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