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湯浅さんの家に「夜と霧」があったので、読んでいる。初めて読んだけど、このタイミングで出会えて良かったと思う。
強制収容所での生活のなかのユーモア、芸術、自然、愛のことを書いた部分がある。「ユーモア」は、周辺と距離をとり自分の魂を保つための力。「芸術」(ここでは演劇のことを言っていた)は収容所生活を送る上で、何かをいっとき忘れるために極めて有用だったこと。極限状態で見る夕焼けは美しく、ただ日が沈むのを見逃すまいとするためだけに、疲れた身体をひきずって外にでたこと。また疲労困憊してぼろぼろの体を引きずりながら、労働現場に向かって歩くとき、強い想像力で愛する人を出現させることができたこと、その愛を感じる上で、その人がそばにいるかどうか、あるいは生きているか死んでいるかどうかなど、全く問題ではなかった。ということ。フランクルは繰り返し書いている。
「妻が生きているか死んでいるかなど、その時は全く問題ではなかった」
人間は目の前の苦しみから逃れるために、心をどこまでも遠くへ飛ばすことができる。やっぱり芸術は本質的にはテクネーと呼ばれた技術のことを指すのだと思う。夜と霧を読んでいて強く思った。狂った環境のなかで、自分の魂を正気に保つために行われる工夫が文化活動なのだと思う。血液検査をしたときのことが重なってくる。このからだに満ちている「生きたい」っていう意志は強くて無自覚で、狂気じみている。とにかく思うのは「健康」とかを過度に考えすぎるのは身体の可能性を潰すことになるということ。僕は芸術のテクネーとしての側面をちゃんと継承していきたいと思う。そういえば2008年の「新建築」何月号かに、磯崎新さんのインタビューがのってて
「"商品としてのアート"という言葉を使ったら、国内のキュレーターからバッシングをくらった。自分は国際的な美術の状況をみて、常識を言っただけだ」
というようなことを言ってた。

Posted by satoshimurakami