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銭湯が人情の場所になっていた、みたいな見方は「あとから見いだされたもの」。昔はただ必要だったから銭湯があって、それが生まれた結果(あとから考えると)人情の場所としても機能していたっていうことなんだろうけど、だからといって人情の場所としての銭湯を復活させようみたいな言い方は、むしろ銭湯の可能性を狭めてしまう。僕はこの発泡スチロールの家での生活においては銭湯が家の風呂みたいなもんだから行くし、ただなんとなく銭湯に行きたいから行く。なんとなく広い風呂が好きだから行く。

でもこの「あとから見いだされたもの」問題は結構厄介で、気をつけないとすぐ足をとられる。基本的に「伝統を守ろう」みたいな思考の仕方はこれにはまっている。「伝統を守ろう」と聞いたときに僕たちは、当の伝統ではなくて「伝統を守ろうとしている人たち」のことを見ている。この時代にチューブの絵の具を使うのではなく、泥を使って描いたり、顔料を溶いて描いたりする人をみるときに、「絵」そのものより「描いてる人のふるまい」を見ちゃう。どうしても。

この問題は本当によく考えないと、あっという間にやられちゃう。ここにこういう事を書くことだって「あとから見いだされたもの」に過ぎないかもしれない。あぶない。

 

Posted by satoshimurakami