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昨日のすき焼きを食べながら気になることを話す会は、途中から14人くらいで人数が落ち着き、気がついたら始まってから4時間経っていた。会場のギャラリースペースは冷房が届きにくいところで暑くて、終わったあとはみんな顔にうっすら汗を浮かべていた。持久走を完走したような感じ。それも良いと思った。会場にいた人はお互いに知らない人もたくさんいて、そんなメンバーですき焼きをつつきながら、全員で話す。内容はこれから長野で始まる「北アルプス国際芸術祭」と、その同じエリアで7年前からやっている「原始感覚美術祭」の関係から始まって「おしゃれで無菌な空気のイベントは社会の成熟の形なのか」っていうテーマを経て最後は選挙とか政治とか、歴史を学ぶことについて、というような話に至った。

最初は会話そのものがぎこちなくて、みんながこの会の進め方を模索しながら話をしたり聞いたりしていたと思う。最後のほうはみんなが自然に話をしあうような空気になっていたと思う。当然、よく話す人もいるし全然話さない人もいる。でも途中で抜けた人はいなかった。よく話す人もあまり話さない人も同じ空間にいて、とりあえずはみんなの話に耳を傾けているという状況は、ちょっとむずがゆい感じもある。でもある種こういう「マジメな話」をみんながあきらめずに続けていった先にようやく、誰かと意見の違うことがわかったりその違いについて「なんでそうなんですか?」と聞いたりできるということがあった。よく話す人も、あまり話さない人も、何かに意見をもっている人も、持っていない人も、自分と意見が同じ人や違う人とも、同じ空間で会話を共有して「いろんな人がいるんだな」っていう単純なことを実感としてわかるためには、こういう場をあえて設定し、むずがゆさを乗り越えていかないと生まれないのかもしれないとも思った。

 

でも僕は最後まで全員で会話をしていることの違和感が拭えなかった。なにかにやらされているような感じを受け続けた。この違和感がどういう原因でおこるのかはわからない。これまで初対面の人と鍋を囲んだり、知らない人だけを集めて飲み会をするような会は何度も開いたことがある。けど「気になる話をする」という設定をして、全員で話そうとしたのはこれが初めてだった。みんなで一つのことを「うまく話しあう」には、段取りや司会のしかたが重要になることを学んだ。僕は主催者ではあるけど、みんなの話を誘導するようなことはあまりしたくなかった。でもある程度は取り仕切った方が良いムードになるということはわかった。ただ「とても良い司会者」がいて、彼がみんなに話をふったりして「うまく話し合いができた」と思えるものにすることにどういう意味があるのかはよくわからない。でもこういうことを作品にしてしまうアーティストもいる。

 

川村さんは、安保関連法案が国会で可決されたとき腹が立って、この怒りをどうしようと思い、味噌を仕込み梅酒をつけたらしい。生活で権力に抗うっていう理屈はなぜか理解できる。政治的な怒りをデモにいってぶつけたり、人に話すことでぶつけたりするんじゃなくて、味噌を仕込むことで解消するっていう考え方は、僕の移住を生活するプロジェクトと近いものを感じた。最近は選挙にいくと白紙票をいれているという女の子もいた。若い人が選挙にいかないと言われてることへの反発と、入れたい人がいないんだっていう意見の表明らしい。これも、味噌を仕込むことと近いものを感じる。こうやってパーソナルな行いでパブリックに反発することと、今回すき焼き会でやったような「人があつまって全員で話す」ことは両立できないものか。

07041600 | 2016 | 未分類 | Comments (0)

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