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僕が泊まってるホステルは狭い部屋に2段ベッドが3つ置いてあるドミトリー形式なんだけど、僕が最初に来たときから同じ部屋に大きめのバックパックを背負った若い男子(ヨーロッパだろうけどどこの国かはよくわからない)二人組がいて、僕が土曜の15時にホステルに着いたときにはベッドでごろごろしながらiPhoneをいじってて、土曜日の夕方17時過ぎにホステルに戻ってきたときもベッドでごろごろしながらiPhoneをいじってて僕は「出かけろよww」と思った。

日曜日は友達に勧められたスコーグスシュルコゴーデンに行った。これが素晴らしかった。教会やビジターセンターの建築も良かったけど、ひとつひとつの墓地にそれぞれ花だったり置物だったりが並んでいる風景を見たとき、建築的な体験と、カルチャーショックが相まって鳥肌がたった。とてものびのびしていて、お墓がこんなに清々しくなるものなのかと。学生時代、建築のアイデアコンペに出すため、お墓に町の寄り合い所の機能を持たせる設計をやろうとしたことがあったけど、そのときに見ておきたかった。100年くらい前に、ストックホルムで墓地が不足したことから計画され作られたもの。木々や小道のランドスケープと建築とがひとつになってる。僕は伊勢神宮を思い出した。

お墓にはひとつひとつにだいたい一人の名前(多いやつもある)があって、それぞれの石に花だったり、猫の置物だったり、小さな灯りのようなものだったりが添えられてる。何も置いてないお墓もある。また墓石もひとつひとつデザインが違って、ただの大きな石に名前を彫ってあるようなやつもあった。日本のお寺のお墓よりも「ここにいる感じ」がある。多分一番動かせないのはお墓だ。墓石を動かしたとしても、お墓が動いたことにはならないだろう。歴史的な建築物の移築はよくあることだけど、お墓は動かせないだろう。それはたぶん生きることは動くことで死ぬことは止まることだから。墓は動かないだろう。

今日はいくつかの教会と宮殿などをみてまわるなど。とにかくやるしかない。ストックホルム大聖堂は700年くらいの歴史をもつゴシック調の大聖堂。これでもかっていうくらいに装飾された説教壇とかをみてると、彫刻や建築や絵画は、ある時代では力を見せつけるために利用されていたことを思い出す。ここに入ったときの「うお!なんかすげえ」っていう感動によって小さな自分と大きな力の差を植え付けられる。今はそこに観光客がたくさんきて写真を撮りまくって帰っていく。説教壇とかはもはや凄みを見せるものじゃなくて、その形だけがのこってて、それをみんな写真にとりまくる。観光客っていう視点はある種の成熟の証なんだろう。こういう大聖堂を舞台にしてブラックな歴史をつくりまくってきたキリスト教だけど、人間はすこしは前に進めたのか。今でもしかしキリスト教にはまんまとやられているな。人間は遊動生活時代には頭を他のことに色々と使っていたので余力をぶちまける対象なんてなかったんだろうけど、定住生活にシフトした余力でこんなすごい大聖堂とかをつくったり、フェイスブックやツイッターをやって人の投稿に嫉妬したりして自殺したり人を殺しまくったりするんだから本当には何がなんだかわかってないな。

07260021 | 2016 | 未分類 | Comments (0)

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