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会議室に入った途端にちょっと怯んだというか、ぐっと胸に迫ってくるものがあった。この会議で日本に対する降伏が要求されたと同時に、アメリカのトルーマンはこのときすでに、原爆実験の威力に関する報告を受けて降り、この成果をもってすればスターリンに対して優位に立てると思い、このポツダムの地で、その内容をスターリンに伝えたという。それを聞いたスターリンは自国の核開発にますます力を入れることにしたという。冷戦の構図は、このポツダムからすでに始まっていた。まだこの会議から七十年しかたっていない。当時会談に使われた机や、英米ソの国旗や、それぞれの首脳の控え室は当時のまま残っている。まだなにもかも残っている。そんな状態。最近日本では共謀罪の施行が決まり、「国」の存在感が日に日に強まっている。あの戦争のあと、高度経済成長を経て、中産階級がたくさんうまれ、民主主義がうまくいったように見え、グローバル化が進み、割りを食った人たちが不満を爆発させ、世界中でナショナリズムが台頭しはじめた。EUが生まれ、EUから脱退する国が生まれた。この間で七十年。まだポツダム会談で使われた机や調度品、控え室は、今だに当時のまま残っている。目まぐるしすぎる。短期間であまりにも色々起こりすぎていていったい何がどうなっているのか。

昨日はリベスキンドが設計したベルリンのユダヤ博物館も見学してきた。このポツダムの宮殿のほうは、日本語ガイドに沿って宮殿内をまわって、1時間半程度だった。さすがユダヤ博物館のほうは、こっちも日本語ガイドがあったけど、全部まわるのに4時間かかった。ぜんぶちゃんと見ようとしたら1日では見切れない。ユダヤに関する展示は、さすがにものすごく力が入っていて、僕は北海道博物館でみたアイヌの展示と比べてしまったけど、比べ物にならない量だった。ユダヤの人々一人一人の物語にフォーカスする部分がたくさんあって単純にユダヤという総称でくくられるのを、注意深く避けて展示しているように見えた。ショックだったのは、ヒトラーが、第一次大戦の時に活躍して戦死したユダヤの兵士たちの墓からネームプレートを剥ぎ取る政策もおこなっていたということ。ユダヤ人に対する、肯定的な気持ちを抹消するために。信じられないけどこれもわずか七十年前の話だ。ベルリン市内には壁がたっていたラインがわかるように道路上に残っていたり、空爆で破壊された西ドイツの教会が遺構として残されていたり、こういう力の入った博物館があったり、いろいろなところで歴史の動脈を感じることができる。僕が泊まっているポツダムのホステルのキッチンスペースにも、毛沢東とレーニンとスターリンとマルクスなんかが「Welcome to the party」の文字とともに描かれたアイロニカルなポスターがあったりする。このへんの、過去に対する自覚が、いたるところに張り巡らされていて、湯浅さんとも、このあいだ久々に話して、彼女はもともとそういう色々な話をするのが好きなことは知っているけど、原発とか移民とかの話が自然にでてきて、こういう話は日常的にしているのだろうなと思った。

さて昨日いったアレクサンダープラッツ(ベルリンの最も中心らしい)の広場はゴミが落ちまくっていて大変汚かった。清掃員の映像は、アレクサンダープラッツ周辺と、ベルリン芸術大学周辺で撮るのが良さそう。今日はまたこれからベルリン市街に行ってぷらぷらしてこようと思う。一応撮影できるようにひとしきり持っていこうか。

Posted by satoshimurakami