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いま松本で住んでいる県営住宅の清掃当番が3ヶ月に1回まわってくるのだけど、それが今日の朝7時からだったのが昨日の遅くまでawai art centerでの成澤果穂展の打ち上げで遅くまで人と話していた+家に帰ってから奈保子とすこしでもゆっくり話そうとしたために寝るのが2時過ぎてしまい、これまでの疲れもあって今朝は全然起きれなかった。この県営住宅は掃除当番に参加できないと不足金3000円を払う決まりになっている。同じ建物に住んでいる人たちと時間をつくって交流する貴重な時間でもあるので僕もできれば行きたかったが今日はどうしても疲れていて起きれなかった。次はまた3ヶ月後だ。あちこち動き回りつつも、想像の根を土地におろしてちゃんと地に足をつけたいと思っているのだけどなかなか難しい。移動しながらブルーベリーを育てたり、農業を手伝いながら移動したり。少しずつ練習していきたい。さっきは家賃を振り込んできた。

一昨日松本に帰って来て、奈保子が1日遅れの誕生日パーティーを開いてくれた。僕の体も時間も有限だ。10月の誠光社出で行う展示物作りもやらないとなのだけど、最近日記も全然書けていない。こういう整理をしたり、掃除当番とか家賃の振込とか生活の呪縛から自分を解放して抽象的な思考ができるようになるために、旅行や旅つまり移動と滞在がどんな人にも必要なんだろう。だからソローは森と街を行き来したのだと思う。彼は森の中にすみつつ、洗濯物は街の人にお願いして生活していた。つまりソローは「家を営む」ものとしての経済活動を実践していた。

先日の今福龍太さんとのトークイベントはものすごく刺激的な時間だったのだけど、economyという言葉のルーツはギリシャ語の「オイコス」+「ノモス」であり、オイコスは「家政」つまり”家”を営むことで、ノモスは「規範」。つまり経済はもともと「家政術」をさしていて、「貨幣術」ではなかった。経済がお金だけを扱うものをさすようになってしまってから、お金をただ無限に増やすためだけのゲームははじまってしまった。「労働」でも「スポーツ」の分野でも。もっというとアリストテレスは経済を「家政術」と「貨幣術」に分けて考えており、後者のほうは「資本を無限に肥やし続けたい」という、終わりのない欲望にとってかわられてしまうので「貨幣術」としての「経済」を否定し、「オイコスノモス」つまり家政術としての経済こそが真の経済だと言っていた。2300年も前に。

ますます「広告看板の家」を実現させなくてはいけない。「移住を生活する」は生活を俯瞰するプロジェクトだが「広告看板の家」は資本主義の中に体ごと飛び込んでいき、力技で「貨幣術」を「家政術」に変換していくプロセスを見せるプロジェクトだ。

また「人と共同すること」についても色々な発見をした。最初から人を巻き込んでやろうとするのではなく、なんらかの真似したくなる動き(それは清掃員村上3のダンスのようなその場でのものでもいいし、プロジェクトでもいい)を動くことから始めるべきだ。清掃員村上3では、労働の喜びを体現することから、路上で子供が僕の動きを「真似」することが起こった。そしてそこから人を巻き込みながらの”運動”が始まる。スポーツのルーツもそういうものだったんじゃないか。

その他ホイジンガーの「ホモ・ルーデンス」の話、「電通(を代表とする広告代理店の使命)」は僕たちの分身(ある部分が極端に肥大化した分身だ)であるという話、ボードリヤールの「消費社会の神話と構造」の話、ジャック・アタリのサッカーの話、さらに面白かったのは「学校・病院・刑務所」は3者それぞれ違う役割を持っているが、構造は全く同じであり、そこで共通している最も重要なものは「食事」であるという話はすごく刺激的だ。そこで提供される食事は、「オイコス」としての食事とは真逆のものとして存在している。命を繋ぐためのエネルギー源として人の口に供給されるもの。「吉野家」とかで感じるあの感じだ。吉野家で感じるあの感じは、この一連の話のど真ん中のターゲットになると思う。

またこれはささやかな話だが「アレ」と「ソレ」という言葉についての発見もした。人との会話の中で何かを思い出しながら「アレ」という言葉をつかうとき、僕は過去に何らかの「画像」を見ていて、それを思い出しながら「アレ」と発話している可能性が高く、おなじく何かを思い出しながらも「ソレ」という言葉を使うときは、文字や言葉の情報だけで伝え聞いているものを漠然と想像しながら「ソレ」と発話している可能性が高い。たぶん「アレ」は画像的で「ソレ」は言語的なイメージ喚起力を持っている。

Posted by satoshimurakami