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鹿児島にはコインランドリーが多い。やっぱり桜島がある影響なのか。天文館公園の周辺だけでコインランドリーが4店舗もあった。これはとても多い。橋口さんに言ったら「気がつかなかったなあ。でもたぶん昔はそんなになかっと思うよ。最近よ。」と言った。
一昨日の昼に家を預けてある橋口さんの家に戻って、「明日、ミニ門松をつくるワークショップをやる」というので、その材料になる竹を切るのを手伝った。太い孟宗竹を短く斜めに切り、その中に細いホウライチクをすこし長く斜めに切ったものを門松の置き方で3本入れて、そのまわりを植物や折り紙で装飾する。ワークショップには僕も手伝いつつ参加させてもらった。かわいい門松ができたので松本に送った。

そして昨日、お昼下がりに橋口家を出発した。フェリーで桜島へ渡り、そこから志布志方面に歩くことにした。
鹿児島の水族館のそばの港から桜島への船は24時間行き来していて、日中は15分に一本出ている。家と一緒にフェリーに乗る手続きをするのはいつも面倒に感じてしまうけど、この家がどんな扱いになるのか楽しみなところもある。
これまでのフェリーでの家の扱いを整理すると、神戸→大分の”さんふらわあ”は「船長と相談します」と言われ、すこし待ってから放送で呼び出され『手荷物扱い』で、追加料金はいらないですと言われた。家は船員しか通れない通路に置かせてもらった。宮崎→神戸の”宮崎カーフェリー”も『手荷物』にしてくれて、家は船体の中の自動車が積まれるところの柱にくくりつけられた。小豆島→新岡山のフェリーは『貨物』扱いになり、追加料金が取られた。「貨物は二輪車に積む」という決まりがあるらしく、僕の家は二輪車よりも大きいにもかかわらず二輪車に積まれた。「積まれた」というより二輪車の荷台には大きすぎて載らず、フレームの上に無理やり載せられた。「二輪車からおろして普通に地面に置いたほうがいいんじゃないか」と言ったが「貨物はこれに乗せるという決まりなんだ」と言われた。別府→大阪の「さんふらわあ」も『手荷物』にしてくれた。ただしこれは僕があらかじめ受付で「過去に二回さんふらわあにのせてもらったけど、どっちも手荷物という扱いにしてくれた」と言った。

そして今回は鹿児島→桜島。まず港の桜島フェリーの建物前に家を置き、2階の乗船窓口に行って「大きな手荷物がある」と言って写真を見せた。一人目の女性はキョトンとしていたけど二人目の女性が来てその人は笑っていた。ちょっと待ってくださいと言ってどこかに電話してしばらく話していた。
電話を待っているあいだ、一人目の人に「これまではさんふらわあに2回くらい乗ったことがあって手荷物にしてもらったんですけど、でも小豆島で乗った時は貨物料金が取られた覚えがあります」とぺらぺら説明していたらそこで始めてその人も笑った。
そして電話を終えた二人目の人が「一般旅客運賃だけでいいです。160円です。桜島についてから支払ってください。」と言った。僕はお礼を言った。そしたら彼女達が「ただ・・」と言って、”どの船に乗せるのがいいか”という相談をしはじめた。どうやら鹿児島桜島のフェリーには5種類の船が運行しているらしく、それぞれ通路や客室の広さがちがうから、どの便でいくのが一番いいか考えてくれていた。そしたら「5分後の船がいいかも」と言われた。
「間に合いますか?」
「やってみます」
僕は下に置いてある家を急いで取りに行ったが、家を建物内に入れるのにガラス戸のロックを外さないといけなくて、それが原因で5分後の出航に間に合わなかった。
「間に合いませんでした」
と行って再び窓口に行った。そこで15分後のフェリーをすすめられ、「ガンバって」と見送られて、今度はフェリーに乗れた。ただし乗船ブリッジを通り船に乗ってすぐのところのちょっとしたスペースにしか家を置けず、そこから先は通路が狭くてすすめなかった。船員に聞いたら「そこで大丈夫だと思います。お客様が出入りするくらいで、出航してしまえば邪魔にもなりません。あとは車椅子の方がきたりしなければ大丈夫です。」と言われて、このままいけるかと思ったけど、ふと気がついて「桜島に着いたらここと同じところから船を降りるんですか?」と聞いたら、それは船の反対側からだと言われた。それはまずい。乗ったはいいけどこのままだと桜島についても家を船から降ろせない。ということになり、一旦その船は降りて、次の便で自動車と同じところから乗ることにした。
再び窓口に行った。一人目の女性が、あれ、乗れなかったんですか。というので説明すると彼女は再び電話をとってまたいろいろ話し始めた。電話を切って「なんども行き来させてすみません」と言う。「こちらこそお手数かけてすいません」と言った。次の便で自動車と一緒に入ってください。船員にはこちらから言っておきます。と言われ、僕はお礼を言って建物を出て、船に乗るのを待っている自動車の列の横を通って、とうとう乗った。

船は15分で桜島に着く。時間は短いけれど、それでも「船旅」という感じがする。船の移動の時間は、それがどんなに短くても特別な時間になっていると思う。桜島についたら愛想の良い男性が僕が出るのを待っててくれて、誘導してくれた。「すいませんね、一便乗れなくて」と言われた。僕はその親切さにびっくりした。運賃は160円です。というのでその安さにまたびっくりした。路上でお金を払ってその男性とも別れた。

桜島に着いたら、ある画家の人を訪ねることに決めていた。橋口さんに教えてもらった人で「あんな気骨のある画家は見たことがない」と言っていた。アルタミラの洞窟壁画を見て衝撃を受け、それ以来ずっと牛を描いていて、さらに桜島に出会い、移住してきて、それからは桜島の景色に牛がいる絵をずっと描いている。という。いちおう武蔵美の先輩にあたる人らしい。

画家の家に着いた。木造平家の古い家だった。入り口の木の引き戸がすこしだけ開いていた。その隙間から「こんにちはー」というと「はいー」と声が返って来て、白髪の男性が出て来た。「橋口さんから聞いて、訪ねて来ました。村上と申します。」と言ったら彼はすこし笑って「まあ、あがんなさい」と言って家に入れてくれた。最近大きな個展があり、それが終わったのですこし休んでいるところらしい。突然の訪問にもかかわらず、「いつものことだが、なんにもない」といいつつお茶などやチョコレートなどを出してくれた。

 彼は吉祥寺にあったころの武蔵美を卒業し、それから東京に住んで絵を描いていた。33年間住んだが、いろいろと思うところがあって、東京では絵が描けなくなった。そこでどうしたもんかと思っていた。ある日、友達にもらったテレビの白い紐をひっぱって電源を入れたら、そこに桜島が映っていた。それをみて「ああ、ここに行ってみよう」と思った。ここはいい。フェリーも15分に一回出るし、夜中もずっと運行してる。交通の便がいい。こんなに近くて行きやすいはずなのに、鹿児市のほうの港の雰囲気と、桜島に降りた時の港の雰囲気は全然違う。それはある意味では我々に責任があって、船の時間ていうのは贅沢な時間で、たった15分なんだけど、こっちから向こうに行く時は「出かける」という感じがするし、帰って来ると「帰ってくる」という感じがする。それがいいと思っている。ここは意外と人がおおらかというか、なにをしてもとがめないでいてくれるところがある。でも公務員が主な産業みたいなことになってしまっている。以前鹿児島でおおきな水害があった。桜島の噴火を除けば、それが最大の天災だったと思う。その影響で、市民に親しまれていた橋を、行政が撤去すると言い出し、それに対する反対運動をやった。でもどうしても撤去になってしまったから、その橋の拓本をとるプロジェクトをやった。そのとき協力してくれた建築家は、それ以来行政から仕事をもらえなくなった。
 外の人はいろいろ思うかもしれないが、火山灰は悪いもんじゃない。地球のずっと深いところから、何千度っていう熱で完璧に消毒されたものが吹き上がって来るもんだ。ただ、今日みたいに雨の日は大丈夫だけど、晴れてる日だと火山灰が道路に積もって、そこを車が通るうちに細かかった灰がゴロゴロしたものになって、さらにそれを車がばーっと巻き上げて体からすっぽりかぶっちゃうなんてことがあると、腹が立つけど、それは車のせいであって火山灰のせいではない。
ここはテレビは置いてない。ラジオはいつもつけてる。ラジオはつけてないと、災害なんかの情報がわからない。この間も震度4の地震があった。ここらの人間は、そういう時まず桜島を疑う。
 思い返してみたら、画家ということでいっても、自分の他に、こっちに引っ越して来て住みついた人は一人もいなかった。一人画家がいたけど、宮崎の方に行っちまった。東京に女房がいる。弟の看病をしながら暮らしている。彼女とは東京で長いこと一緒に暮らしていたが、僕に絵を描かせるために鹿児島に送り出してくれた。東京にすんでいたときはいろいろ煩わしいこともあって絵をかけなかったけど、こっちで一人でいると描ける。この絵は20年くらい前に描き始めて、今年の個展に間に合うようにして展示した。僕の世代はこうなんだ。一度出品した絵をもう一回引っ張り出して描き加えたりする。既存の画壇には入ったことがない。自分でグループを作ったりしたことはあったけど、やっぱり何人かでやっているとだんだんやり方に違いがでてくる。それはそういうもんだ。画壇とか、ジャンルとかはあまり考えすぎないようにしたほうがいい。現代アートと油絵も、何の隔たりもないと思っている。画壇にはやたら隔たりを作ろうとしている人もいるが。あんまりジャンル分けしないほうがいいんだけど、いま人が作っている作品は全て現代美術だと思う。
 女房とは離れて暮らしているけど、電話は1日になんどもする。最近は、安く電話ができるようになった。携帯電話が安いので、そのためだけにもっている。他のことにはつかわない。四六時中連絡が来ることになってしまう。このあいだ、自分の個展の手伝いのために4年ぶりに来てくれた。4年ぶりに会った。それで数十日間一緒に生活した。いくら夫婦でも四年ぶりにあったらいろいろとお互いに生活をやり方が変わっているから、最初はそれを合わせるだけで努力が必要だったが、いろいろ喧嘩もしながらやってるうちにペースがあって来た。いまは東京と鹿児島で離れているけど、一緒にいるつもりだ。彼女もいろいろしんどかったと思う。でも、俺に絵を描かせるために送り出してくれた。久しぶりに会って、「苦労かけてしまったな」と思った。俺も彼女ももう歳なので、そろそろ一緒に住まないといけないなと思う。
 ここで絵を描いていると、自然と人とは違う方法論になって来る。変わったことをやろうとしてやるんじゃなくて、自然と変わって来る。
このあたりは歴史のある通りで、島津家の頃もこのへんには役職のある人が住んでいた。もっというと縄文時代の頃から人が住んでいた。でも、この家は夫婦二人ともなくなって空き家になってるし、もう80になる私がここらでは一番若い。
 制作するということは、自己批判の繰り返しだ。それだけでも価値があることだと思う。それぞれが、それぞれのやり方で方法論を探りながら制作している。それが個人的なものでも、この方法論には価値があるんだということを、当人が言っていかなきゃいけない。価値のあることをやっているんだと主張して、場合によっては行政からお金をもらう権利も主張していいはずだ。それは価値のあることなんだから。作家として生きることの責任を考えてやっていかないといけない。僕も、たくさんの人の協力でこれまで生きて来た。よくあんな適当なことばっかり言って、これまで生きて来られたと思う。

素晴らしい作家だ。話していて、なんだか緊張してしまった。あまり人と話して緊張することはないのだけど、緊張してしまった。絵も何枚か見せてもらった。橋口さんのいう通り、どの絵も桜島(山や木などのモチーフ)と、牛が描かれている。26年桜島にすみ、桜島を描いている。そして「絵で食っていかなきゃいけない」という責任のとりかた。彼は彼の方法で何十年も筋を通してやっている。その凄みがあった。

Posted by satoshimurakami