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志布志は灰色の街という感じだ。橋口さん達とドライブした時に思った。空き家らしき建物が多く寂れた雰囲気もありつつ、銀座街というスナック街とか居酒屋とか洒落たイタリア料理屋などお店もたくさんある。味わい深い看板を出している店もたくさんあった。「私はローラ・ハート♡」という名前のブティックも見つけた。かごしま屋という服屋で馬鹿みたいに安くてかわいい上着とスウェットを買った。

しかしいまこうして書いていて、車でドライブすると、スピードと視点の高さからか、街の全体感が掴みやすいことがわかった。家と歩いていると地面への視点ばかりになるので、街全体はつかみにくい。歩くスピードと車のスピードではつかめる空気が違う。車はでかい顔して走っているのは嫌いだが、乗ると面白い。建物から建物へと視点が動く。対して歩きだと(これは家を持たずに歩いていると、ということだけど)建物の細部から細部へ、そして次の建物の細部へ、という視点になりやすい。

昨日の正午ごろにキャンプ場を出発した。それまでは絵を描いたりしていたが、途中

「大崎町ナントカ地区のゴルフ場の建物にて火災が発生しました。地域の消防隊は出動してください。」

という町内放送があったが、その後1時間くらいして

「先ほどの放送は、火災ではありませんでした。」

と言っていた。

出がけに、キャンプ場のオーナーから

「志布志の人がみたら、松山城っていう白をベニヤ一枚で作ってるから、それに何か使えないかと思うんじゃないかなあ」

と言われた。詳しく聞かなかったけれど、松山城って愛媛県の松山城かな。志布志と何か関係があるのか。あとで調べたい。キャンプ場から2時間半くらい歩いて志布志フェリーターミナルについた。ここの住所は”志布志市志布志町志布志”らしい。読みにくすぎる。この港は30年くらい前に海が埋め立てられて整備され、近隣の大きな工場が1社以外はすべて移転して来たらしい。この「志布志-大阪」を行き来する航路はもっと古くからあるみたいだけど、親会社は3回くらい変わっているという。フェリーターミナル内で働いてるおじさんから聞いた。

いつも通り窓口に行き、家を見せて、これと一緒に乗りたいんだけど料金はどうなるか、という話をした。「ちょっとお待ちくださいね」と言われ待合所で本を読んで待っていたら女性が小走りで近づいて来て「料金はいりません。乗ったら、船に入ってすぐの階段の下のところにおかせてもらってブルーシートか何かをかけさせてもらいたいのですがそれでいいですか?」と言われた。

乗りこんだら窓口の女性スタッフ4人が駆け寄って来て、みんなで写真を撮った。「さんふらわあ美女軍団でぜひアップしてください」と言われた。

あと「フェリーさんふらわあステッカー」も2枚もらった。これは嬉しい。1枚はパソコンに貼った。1枚は家のどこかに貼ろうと思う。

一度乗ってその階段の下まで行ったのだけど、船員から「大阪の降り口の通路は、ここよりも狭いから家が通らないかもしれない」と言われ、一度降りて車両甲板のほうに案内してくれた。わざわざ床に毛布のようなものまで敷いてくれて。船員の男性(たぶんマネージャーみたいな立場の人だろう)が、車両甲板のスタッフらしい作業服の男性に向かって「大阪着いたら、”乗用車”、”バイク”、”家”の順番でご案内するように伝えて」と言っていた。半分笑いながら。

僕が乗っているのはさんふらわあきりしまという船で、93年に就航したらしいが来年で役目を終えて海外で第二の人生がはじまるらしい。来年からは新造船が就航するという。24年間鹿児島と大阪を往復し続けたこの船に乗れて嬉しい。

まもなく船は大阪に着き、僕は大阪の上町荘に家を預けて、松本の家に帰る。こっちは社会的な家だ。現場の家とはしばらくお別れになる。現場の家と社会的な家(もちろんこっちもある種の現場なんだけど)との往復生活がはじまって。もうすぐ丸二年になる。この二重生活というか、それを送っているということがいったいどうことなのか、ちょっとじっくり考えないといけない。冬の間は、awaiで「冬のあわい」というゆるめのスペースをやる。週末だけ飲み屋をやったり、手紙を書いたり自由律俳句をやったり。あとは文を書いたり、本を読んだり、京都のアートフェアに参加したり、世田谷のプロジェクト(第二の”現場の家”になるだろう)の実現の目処をたてたい。

もうすぐ日の出の時刻になる、これから甲板に出ようと思う。

Posted by satoshimurakami