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ヴィレムフルッサーによれば、家は、世界で経験したものを処理するためにある。慣れた場所、通例の場所がなければ、我々は何も経験できない。
発泡スチロールの家に住むとき、僕にとっては、描くことと書くことが家に帰ることだ。

『我々は居住する動物である。巣に住むにしても、洞窟に住むにしても、テントに住むにしても。また、家屋に住むにしても、縦横に積み重ねられた箱型住宅に住むにしても、キャンピング・カーに住むにしても、橋の下に住むにしても。慣れた場所、通例の場所がなくては、我々は何も経験できないのである。慣れないもの、異例なものは雑音だらけで、慣れたもの、通例のものの中で処理されて初めて経験となる。~住所不定の彷徨者は何も経験せず、「あちこちと」回るにすぎない。~堅固で快適な家は、慣習の場所として雑音を受け止め、経験へと処理する能力を、もはや果たせなくなって居るように見える。~これは存在論的な問題である。今まで我々は、自分を個体であると思ってきた。つまり、人間はそれ以上細かく分けられない物で、空間と時間の中を動いて居るのだと思って来た。家は、そうした運動が集中される場所であった。家は~「現に立っているもの」であった。しかし「人間」という個体の運動は、ますます厳密になってゆく分析に服した。~人間は家を出て世界を経験し、経験したことを処理するために家に帰る。人間は世界を発見するために出かけ、自分を再発見するために帰ってくる。だが、人間は世界で自分を失い、家に帰って世界を失う。~我々が自分をインディヴィジュアル(分けられないもの)と考えることはもはやできない。それ以来、個人(インディヴィジュアル)の運動と、そのさい家が果たす役割について語ることは、もうできなくなったのである。だから、家を新しく投企しなければならない。新しい投企がなされるまでは、我々は家無しでしかない。』

12142257 | 2017 | 未分類 | Comments (0)

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