02212015 | 

バスに乗っていて「お降りの方が押す黄色いボタン」をみんな押しているけれど、それが何でできているかなんて全然考えてないんだろうなと思ったのだけどそういえばハイデガーも「道具」について「履いている靴のことを意識しないでいられればいられるほどそれは靴として優れている」と言っていて、同じことがこのボタンにも言えるんだなというところまで思い至り、ふと昔ファミリーマートの看板をすぐ目の前で見た時、その大きさと「物質感」に驚いたことを思い出した。あの時初めて気がついた、それまではただの情報としてしか見ていなかった「看板」は情報である前に、重さと奥行きと、なんなら内部に空間さえも持っているという大きな「物体」であるという発見は、それが看板という道具として優れていたからこそ、現実に物質でできているということが後ろに隠れてしまっていたことの発見だったのだ。そうやって素材が後ろに隠れてしまう道具と違って、芸術作品では「世界」と「大地」との闘争によって真理を顕現させるみたいな話がハイデガーの芸術論だった。ここでいう「世界」は「それはつくられたものである」という事と関係していて「大地」は「しかしそこにあるものはなんらかの現実の素材である」ということに関係がある。大地とか世界とか言い回しがハードでかっこよく感じるのだけど実は素朴な話だ。iPhoneとかみればわかるけど道具が優れて高度になっていくということは素材をどんどん後ろの方に隠れさせていくのだけどそれに対して、芸術作品でおこるという闘争は、現実にそれは素材でできている。現実のなんらかの素材であるという「あ、そういえば」というふうに、ふと我に帰らせる力と関係している。この力は、作品は「それを見守る人」をその真理の場所にひきこみ、それに触れる以前の状態ではいられないという(彼の言うところの)芸術作品の性質とも関係している。とても勇気をもらったのだけど、なんでいまのいままで岸井さんが教えてくれるまでハイデガーの芸術論面白いよと言ってくれるひとが誰もいなかったのか。大学の先生とか。先生はベンヤミンもニーチェも教えてくれなかった。「芸術作品の根源」はとにかく全体に道具と比較してるのがグッとくる。有用性に埋没してしまう道具の話は、大学に人文いらないっていう風潮とか「稼げる文化」とかそういう流れに対して、圧倒的に言い返してくれているようだった。利用したいというものは制圧欲求で、芸術作品はそれに端的に抵抗する話とか、科学は真理を生起しない話とか、作品は存在していること自体を非日常化する話とかも超サイコーだった。

02212015 | 2018 | 未分類 | Comments (0)

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