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こんにちは。村上慧と申します。1988年、昭和63年東京都生まれです。この「家をせおって歩く」の話をしに来ました。

まずこの本を読んだ人はどれくらいいるのか?

僕はこれを作品としてやっているんですが、すこし噛み砕いて説明すると「もう一つの「住み方」を身に付けている」と言えるかもしれません。いま僕は東京で借りている家と、この発泡スチロールの家の2種類の「住み方」を持っていると思ってください。ちなみにいま3種類目を準備中なんですが。それの性質上、協力してくれるスポンサーが必要で、いまそれを探すのに手こずっています。もし詳しく聞いてみたいという方がいたらあとで声をかけてください。

(本の説明)

大阪に初めて来たとき、奈良県から暗峠という、ものすごく急な坂道を通って大阪府に入ったんですが、へとへとで東大阪市に入って、子供から木の棒を投げられました。それで大阪の子供はやっぱり違うなーと思いましたね。

僕は東京のアトリエから新幹線でここまで来ました。新幹線は時々乗ると、そのスピードにびっくりします。驚くべきスピードです。2時間半で着いちゃいます。この家は新幹線に載せることはできません。この家があるかぎり、僕は歩いて移動しないといけません。ちなみに、さっき調べたんですが東京の僕のアトリエからここまで、途中フェリーを使ってちょうど498キロあります。この移動にはたぶん、歩くと40日間くらいかかります。なのでもし僕が東京から家を持ってきて今日ここで話すためには、今から思えば、涼しかった頃の6月下旬に東京を出発し、7月の半ばごろに浜松でうなぎを食べて今日ようやくここに到着したという感じになるでしょう。そしてここから東京に歩いて戻るとして、今月の終わり頃に富士山の麓を通って9月半ばごろに東京に着くと思います。すると、ここで1日話したりするために僕はきたわけですが、ここにくるための移動に80日間くらい使うことになります。すると、何が起こるかというと、ここで1日話すために歩きはじめたはずが、途中から、歩く最中に起こるいろいろなことに巻き込まれて、そちらのほうが面白くなってきてしまいます。これはヘンリーデイビットソローという僕が好きなアメリカ人の作家の言葉ですが、

「誰にも出し抜かれない生き方がある。それはゆっくり歩くことだ。」

「さて、今から徒歩で移動すれば、夜までにはフィッチバーグに着くだろう。以前このペースで、1週間歩いて旅をしたことがある。君はその間働いて汽車賃を稼ぎ、明日、あるいは幸運にもかきいれ時ですぐ仕事が見つかれば今夜にも、そこへ着くだろう。フィッチバーグを目指して歩く代わりに、君は1日の大半をここで働いて過ごすわけだ。ということは、鉄道が世界を一周したとしても、僕は常に君より先を行っていることになる。さらに、その地方を見物し、いろんな体験ができることを考えると、とても君のやり方に付き合う気にはなれないね。」

これが意味するところ、皆さんも考えてみてください。

でも今回、この家は東京から来たのではなくて、韓国の釜山からきました。一ヶ月間くらい釜山にこの家を使って住んでいました。先日まで釜山にこの家と一緒に行っていました。そういえば釜山からフェリーで帰って来たとき、不思議な体験をしました。(夜景の話)こうやって、作家を思いもよらない考えに至らせたり、どこか場所に連れて行ってくれるもののことを僕は作品と呼んでいます。

きっかけ、という質問をよくされるのですが、僕はこのプロジェクト以外にもいろいろつくっていて、このプロジェクトは自分の「生活をつくる」という作品なだけであって、なぜこんなことをするのかと聞かれたら僕は作家だからとしか答えられないのですが、アイデアの種とかモチベーションは色々あって、もともと建築を勉強していたときに、なにかをブラインドされてやらされているという感覚が拭えず、住み方そのものをもう少し考えたいと思っていました。ブラインドというのは、なにかとてもおかしなことをすっとばして、当たりだというふうに思い込まされているという感覚です。例えば、別荘の課題がありました。別荘の空間を設計すればいいんですが、そもそも別荘をオーダーする人がどういう人で、なにを「別荘」に求めているのか、ばあいによっては別荘という解決策以外にもっといい方法があるんじゃないかとか、もっと個人的に思ったのは、都心に家を一つ持っているのに、山の木を切り倒してもう一つ家をつくるという以上、都心とは違う住み方をしなければいけないと考え、縁側と屋根と雨どいのようなものしかない、不思議な家を作ったんですが、おもしろけど施主としてはこんな家を設計する建築家には頼みたくないと教授に言われまして。そうやって色々言われたり普通に過ごしているうちにふつふつと社会に対する怒りのようなものが湧いてきて、なにか作らないと生きていけないと思って作品のアイデアを出すようになりました。体のつかいかたといってもいいんですけど、いまの社会、住み方がとても限定されているような気がしていて、この1パターン(家賃を払うか、家を買うか。でも家を買うってどういうこと?とも思うんですけど)しかないことが我慢ならないというか。被災地でダブルローンの人々をたくさんみました。これは何かおかしくないかとおもいました。家というのは、シェルターの機能と、社会に自分を登録するためのポイントになる機能があります。トレーラーハウスでは住民票が取れないといっていた石巻の女性がいました。ようするにうごかれては税金が取りにくかったり管理しにくかったりするわけで、その元で生きているわけです。住民票を持たないことはこの国では罪になります。罰はないようですが。でもこの住み方ゆえに怒っている色々な問題があるんじゃないかというか、住み方はおよそ全ての問題につながっているんじゃないかと思います。あと仮設住宅で辛そうな人もたくさんみて、なんというか、全然違う住み方をやってやろうと思いました。

にじのとしょかんテキスト | 2018 | 未分類 | Comments (0)

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