01072018 | 

こまばアゴラ劇場で「これは演劇ではない」というフェスティバルをやっていてそのなかの新聞家の「遺影」という作品を見てきた。新聞家は「塒出」以来2回目。役者二人が椅子に座ってそれぞれ一回ずつ、すこし長い文章を話す(彼の作品は役者が「文章を話している」という感じがする)だけのストイックなものだったのだけど、役者の二人の話し方に不思議な緩急があったり語と語のあいだがあいたりしていて(話をしようとしているのではなく、文章を話そうとしている)、その余白の感じから荒川修作のICCのインタビューを思い出した。二人の役者があの感じで「あー、、」と、次の語を探すようなフィラーが入ると、もう荒川さんの話し方になる。

荒川修作 インタヴュー


荒川さんに限らずインタビューに答えてる人の挙動と、今回の遺影の二人の役者の振る舞いには共通点がある気がする。インタビューに答える人は、自分が発話したものが文字起こしされて文章になってしまうということを考えながら話したりするので、話しながら言葉を選んだりする時に生まれる一瞬の合間とかが、普通にその人が友人と話したりするときとは違う「その人の見え方」をつくる。その点今回の役者二人は、覚えた文章をたどたどしく(なにか演出家からの指示があるのか?)再生していたことが、言葉を選ぶ仕草に似た時間をつくっているというか、インタビューに答える人とは逆のことをやっているのに、似た仕草として現れているというか、それが面白かった。

その構造と、二人の台本を覚えている「プロンプター」が変装して客席にいたことによって、役者二人はそのプロンプターを探すような目の動きをしていたわけだけど、人を探すっていう、演技でもなんでもないごく自然な仕草を舞台上の人がしていて、二人の役者は舞台上にいるのにある種客側にもまわってしまっている構造が似ている。今回の上演でプロンプターとしての人を発見できたのは村社君にとって大きな収穫だったんじゃないか。

あと日常生活のなかで、誰もが持っているであろう「テッパン」の話を人にするときのことも考えた。以前誰かに話した同じ話を、別の人に話す時に人は言葉を話す主体というよりは、言葉によって動かされる客体側にまわる。

塒出のときもそうだけど、新聞家の作品からは台本のテキストを役者に読んでもらっているのに、テキストと役者を引き剥がそうとする力を感じる。

01072018 | 2019 | 未分類 | Comments (0)

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