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大学セミナーハウス「ぐるぐるつくるワークキャンプ」に約十年ぶりに参加して、吉阪隆正への見方がクリアになった。

・住むことと家がどんどん離れている。

・家は自分の体の延長である。その設計を人に頼むのはおかしな話だ。

吉阪が言っていたこのあたりのことは、僕が大学の時から思っていた「人の家を自分が設計する資格があるのか」ということの延長にある。

住宅のプランを作るには、一つ思考を飛躍させる必要がある。それは「人が住む家を、他人である私がつくる」ことへの壁を乗り越えないと、住宅の設計はできない。この壁は僕にとってはとても高くて、僕は「私的な行動は公共へのアクションになる」という発見ができたこの壁を迂回することができた。個人的な営みでも社会的なアクションになるというロジックを使い、そこから看板や経済の話に結び付けているけど、吉阪さんの言葉を読むと、その壁はやはり無視してはいけないというか、「他人の家を設計する資格なんてあるのか」という違和感は至極まともなものなんじゃないかと思えてくる。みんな無自覚に人のものを作りすぎている。人が使うものを作ったり、人に影響を与えたりすることへの奥ゆかしさみたいなものがない。下品だ。吉阪さんもそこにひっかかっていたのだ。吉阪自邸によく現れている。建築家は人工地盤と屋根だけつくり、中身のパーティションはそこに住む人に任せるべきだという考え方。住む人が変わったり時間が経ったりすればパーティションも変わっていく。という住宅のありかた。

これは、吉阪さんなりの「ここまでは踏み込める」という建築家としての態度の現れだったのだと思う。「本来自分の家自分でつくるべきだ。でもそうも言ってられない、だから、床と屋根だけはつくる。私ができるのはここまでだ」ということだ。

藤森照信さんも言ってたけど、吉阪さんの作品(というと、齊藤先生に怒られそうだ。吉阪さんは一人で設計を進めのではなく、模型を囲んでU研究室のみんなで進めていくという方法を取っていた。それが今『吉阪作品』として語られてしまう)には、かっちりと固めたものを打ち出すというよりも、「途中でやめている感じ」がある。これは吉阪自邸にも現れている、ここまではやるけど、ここから先は私は踏み込まない。という思想があらわれている。

砂場で遊んだり砂浜で像を作ったりするように場所を作るもんだから、ここからはある人の所有地で、ここからは別の人の場所で、ここからが自然で、ここからは吉阪作品だ、みたいな区分けが曖昧になっている。

また齊藤先生が言っていた「今和次郎に会った吉阪は、コルビュジェに会わなかったら建築家にはなっていなかっただろう」という話も興味深い。

05262115 | 2019 | 未分類 | Comments (0)

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