2013年7月9日(火)10時17分
2013年7月9日(火)10時17分
表現者なら全員尊敬できる。
「命を救われた」というのは大げさかもしれないけれど、発狂せずに生きていられるのは、彼らのおかげだと思っている。
転覆を志向するアクティヴィストやピエロのような存在にはなりたくない。アクティヴィズムは、転覆への志向性そのもののなかに宿り、転覆が成功してしまったらそこで終わりだ。彼らのことはとても尊敬しているけれど。
ただ移動をしつづけ、土地や共同体への参加と脱退を繰り返し、たくさんの生活圏、コミュニティ、個人の感覚を、複数化していくこと。着陸したら出発し、出発したらすぐに着陸する。着陸したと思ったら、それは出発であったり、出発したものだと思っていたら、それは着陸であったりする。
この社会はお金を払う方が、サービスを提供する方よりも偉いという考え方があまりにも一般化している。
一週間という考え方を「人間」にあてはめたときの取りこぼしが多すぎる。
例えば「ある名付けられる以前の状態の存在。それは四つ足で、尻尾があり、足が早く、人や物を運ぶ事が出来る」を「馬」と名付けたときに取りこぼしてしまうものたちのために美術はある。
そのうち「全席優先席車両」なんかが登場して、働く者たちは狭い車両に押し込まれ、年老いて働かなったものたちが、ゆったりと席に座るのが当然のようになっていくかもしれない。