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僕は家を出るとき、ドアを開けるとき「お前はどこにいくのだ」と自問してしまうドグマに縛られている。どこか具体的な目的地があることや、用事があることは、家をでることとは無関係のはずなのに、「まずどこに行こうか」と考えずにはいられなくなっている。漫画「今日の猫村さん」で、猫村さんが勤め先の家の不良娘に「どこにおでかけになるのですか?」と聞き、娘は「うるせーほっとけ」と答える。思い当たる人も多いだろうこの違和感は、どこから来ているのか。僕も、実家に住んでいた頃、無目的に家を出ようとするのを両親に見られるのが、なんだか苦手だった。とくに悪い事をしているわけではないのに、「どこに行くの?」と聞かれると、答えに窮してしまう。何か自分が悪い事をしているような気がしてしまう。僕は「散歩」と答えていたけど。でも僕の中では、言語化できない衝動があったし。完了できないことはわかっているけれど、歩き始めずにはいられない何かがあった。この違和感は、かつてのシチュアシオニストたちの活動ともなにかつながるような気がする。僕自身が学生時代にやってた「東京もぐら」と称した散歩活動とも。このあいだ「歩いている時、動いているのは僕ではなくて地面の方だとしか思えない」と書いたけれど、これは、いま書いた「お前はどこに行くのだ」という自問と、相対する考え方だと思う。「いま自分は移動中である」と「今自分は静止している状態である」という二項対立の考え方は、「目的地に行く最中なのか」と「目的地に着いている状態なのか」という僕たちの生活スタイルに起因しているような気がする。つまり僕たちは「動かない家」を出て、"自分が動きながら"「職場」に行って、時々、動かないスーパーや本屋や役所にも、"自分が動いていく"というこの生活のありかたに。細かく分業が進んだせいで、お金を稼ぐことが第一の欲求になってしまいかねないこのありかた。これは多分、逆なんだと思う。動いていないのは自分の方だ。だって、この間も書いた通り、僕は僕が動いているのをみた事がない。僕が歩いているとき、僕を僕と認識するこの主体のようなものは、"ここ"から離れる事がない。動いているのは地面の方で、僕は動いていないから。
最近佐々木中さんの「夜戦と永遠」を読んでいるのだけど、佐々木さんも言っているように「本を読む事」は、「知識の移動」なんていう受動的な物では断じて無いのだ、と本を閉じるたびに思う。僕は家で本を読んでいるとき、あきらかに能動的に動いている。「書き手と共に彼処にいきたい/いけない」のあいだで、常に動いている。でも、バイトに行く道中、歩きながらも僕は動いていない。動きの中で静止していたり、静止している中で動いていたりする。本当はたぶんそうなのだと思う。ただ「動いているのは人で、建物は動かないという事にしておこう」という取り決めの中に生きているにすぎない。そのほうが効率が良い(ということになっている)から。ただ「~ということにしておこう」という状態にすぎないことを忘れてはいけない。
学生時代にすごくお世話になった、師匠とでも呼びたいある人が、いま旦那さんの実家に嫁いで、義父母との関係がうまくいかず、精神的にすごく落ちている。ツイッターでその心情が垣間見えるのだけれど、あの鬼のように怖かった人が、窮屈な環境に置かれて、「耐える」とか「東京はよかった」とか「眠れない」とかツイッターに書き込んでいて、その"どうしようもなさ"が伝わってきてつらい。なぜこんなことになっているのか。ASEANの会食で日本の首相がAKBやらEXILEやらを呼んで「エンターテインメントを楽しみましょう」なんて発言がなぜできるのか。知り合いの母親が、旦那さんにとっては二度目の結婚相手ということもあって、近くに友達もいないし、特に「趣味」もないので、家でテレビなど観ながらずーーっと留守番をしているという生活を長いこと送っていた結果、重度の鬱になってしまった、ということがなぜ起こるのか。丸亀市の、あの怖くなるほど暗くて誰もいなくてシャッターしか見当たらない商店街がなぜ生まれてしまうのか。その元凶の多くは、さっき言ったことのなかにあるような気がしてきた。

Posted by satoshimurakami