11062305

最初の気持ちを何度でも思い出して、今の自分に投影する。どちらを目指すのか、指針をさだめる。目的地は定めない。自分で自分に問いかけて、自分で答える。これでいいか、まだか、自分で反省し、自分で褒め、自分の背中を押す。一人で賑やかな街になり、一人で静かな森になる。山にも海にも空にもなる。一人で。深海に潜る。みんなの足場がある深いところまで潜る。すこしずつ無理をして、すこしずつ深く潜る。

 

ツイッターを凍結した。しばらく情報源を絞る。

今井町で持ち寄り鍋をやっているときに気がついた。ダシとわずかな塩と醤油だけで長時間鍋をやっていると、薄味ながらも、素材の味が効いたとても深い味わいの鍋ができてくる。そんな味ばっかり1日中味わっていると、だんだん時代の感覚が昔に戻っていくような感じがする。

そんな鍋を食べている最中に、コアラのマーチとかコンビニで売ってるような餃子とかを食べると、味が強すぎて、その場からとても浮いてみえる。食べ物と言うよりは、工業製品を食べているような気がする。それはたしかに美味しいけど、その美味しさは口だけで終わる。鍋のように、からだにしみ込んでいくような美味しさじゃない。とても強くて癖になるけど、とても表面的な美味しさ。

情報も同じだと思う。ツイッターやフェイスブックなんか見てると、その場ではとても気になる情報がたくさん流れて来る。バイラルメディアなんかその典型だと思う。その場では気になって見る、その場では笑ったり、泣いたり、ちょっとした感動ができちゃったりする。でもその場だけで終わる。絶対に1年後には覚えていない。「泣ける」とか「笑える」とか、大事な言葉が短絡的に使われていて、本当にクソみたいな現象だと思う。表面的な情報をいったん絞る。情報は現実の景色よりもインターネットの方にたくさんあるという錯覚をもう一度確認しないといけない。いまここにいる虫、草、景色、からだの動き、思考から、ダシの効いた鍋のような、からだに染み渡る情報をひきだす訓練をしなければいけない。

Posted by satoshimurakami