4月9日-2(19日目-2)

ロッキーについてもう少し。努力が実らなかったり、実っても誰かの邪魔が入ったり、不運に見舞われたり、大切な人の不幸があったり、様々な困難にあいながらも、ロッキー、そしてクリードも、周りの人々の助けを借りながら、何度も立ち上がる。ロッキーはスーパースターになったが、同時に弱い男でもあるということを、僕たち観客は知っている。だから、彼をただのスーパースターの金持ちとしてしか見ない人々のセリフが、ロッキーには当てはまらないということもわかる。僕たち観客はロッキーが乗り越えてきた困難の数々を知っているからだ。始めこそ運に恵まれたロッキーだったけど、その後はただ努力と、絶望と、そこからの再生の繰り返しだったことを知っているからだ。そして時が流れ、ロッキーの子供達の時代になる。ロッキーの息子は父親の七光りと言われて苦しみ、自分の不幸を父親のせいにする。「クリード」においても、始め主人公のドニーは、父の名前を隠してボクサーになろうとする。父から逃げようとする。でも、最後ドニーは父が偉大な真のチャンプであることを、自らの戦いによって証明する。それは、ドニーの物語の始まりでもある。「名を継ぐ」ということは、父の名前を借りて何かをするということではないのだ。魂の尊厳を継ぐことなのだ。ただ伝統を形として守るということでもなく、伝統に反抗する、ということでもない。そのふたつの安易な道に走らず、どちらでもないあいだで苦しみながら、工夫と努力を重ねた先に何かを見つけた時に、初めて「継ぐ」ということが可能なのだ。まさに幕末の、堕落した「血だけは正統な武士」と、そんなものは武士ではないと怒り、血はただの農民だったりして武士ではないが、魂は紛れもなく武士になった「新撰組」のような話だ・・。本当に素晴らしい映画をみた。「クリード」が見れて本当によかった。そして「クリード」は「ロッキー」があったから生まれたものだ・・。表現を表現で超えていくということ。その難しさと素晴らしさを教えてくれた。

Posted by satoshimurakami