5月の浅草は、週末どこかしらでお祭をやっています。

それで僕も先々週末は三社祭、先週末は石浜神社例大祭に参加しました。

僕が住んでいる町会は三社祭の対象範囲(というものがあるらしい)ではなかったので、別の町会に混ざって参加したので、朝から晩まで神輿だけ担いで帰ったような感じでした。

 

対して先週の石浜神社の方は、住んでいる町会が直接関わってるお祭りなので、どっぷりと参加できました。

町会内で青年部とか婦人部とか役員とか、いろいろとグループ分けがされていて、青年部は神輿を担いだり人を集めたり、準備・進行・撤収全般の担当で、婦人部は期間中のお料理やお酒やおつまみの用意に奔走していました。「役員」と呼ばれている人達の役割がいまいち掴めませんでしたが。。

そして、それらのグループに参加する条件はただひとつで「みんなと顔なじみになる」という事です。

お祭りに参加するということは、地域社会の一員になりきるということです。祭の三日間は、日頃営んでいるそれぞれの日常を抜け出して、「守られてきた地域のルール」に縛られながらそれぞれが役割をこなす、というスイッチにみんなが切り替わります。そこで、自分は1人の人間であって、それ以上でもそれ以下でもないということを痛感しました。

最初はそれが辛かったのですが、終わってみると「どうしようもなく1人の人間であるということ」を強烈に実感できた三日間だったなと思います。それは、参加した一人一人みんなが輝く日々でした。

飲み会の席で、若造の僕たちに「きみたちはただ座ってるだけじゃだめだぞ(他のテーブルに挨拶まわれ)!」というおじさんもいれば、他のテーブルに挨拶してまわっている僕たちに対して「いいよ!自分のとこ戻れよ!気にすんなよ!」と、別のテーブルから叫んでくるおじさんもいました。みんながみんな、愛をもって接してくれているのを感じました。

 

「守られてきた地域のルール」に縛られながらそれぞれが役割をこなすというのは、個人主義とはかけ離れた雰囲気です。「全体の雰囲気を読みながら、全体が進行していく」という雰囲気です。

そのせいか、時間の区切り方が「ぬるっ」としてました。期間は三日間だと書きましたが、このあいだに僕たちがやった事は、極端に言うと「神輿を担ぐこと」と「神輿を担いだ後に休憩したり、挨拶したりする」の二つしかありません。神輿は一日3〜4回担ぎますが、一回40分〜1時間くらいです。なので、待ち時間がとても長くなります。僕はその時間を気持ち悪く感じてしまったのですが、この祭はもう千何百年もこの雰囲気でやっているのだと思うと、気持ち悪く感じる自分、大丈夫かな、と思ってしまいます。

何時何分から〜をやるらしいから、何分に集合ねー。

みたいな約束は有効じゃないことが多いです。時間ではなくて、「誰々が来た」とか「人が集まって来た」とかっていう雰囲気で、プログラムが進行します。「全体の雰囲気を読みながら、全体が進行していく」と書きましたが、「"個"がどうでもよくなってしまって、全体にぬるっと吸収される感じ」です。

また、お神輿は「神様と人間関係と重力の美学」です。お神輿の渡行(とぎょう:担いで歩く事)に参加するということも、「"個"がどうでもよくなってしまって、全体にぬるっと吸収される感じ」です。足並がそろわないと前後の人を妨害してしまうし、身長が高い人は屈まないといけないし、低い人は、肩に何かはさんで担いでいました。みんなに合わせて声も出さないといけません。これは強烈な体験です。

 

こんな雰囲気が嫌だったり、細かいルールに従うのを嫌って、お祭りに参加しない人もいるのだと思います。

また、参加したくても参加の仕方が分からない人もいました。

最近できたばかりのマンションの5階に住んでいるという夫婦は

「祭やってるなんて知りませんでした。私達も毎月家賃と一緒に"町会費"というのを払っているのに。。この祭にはどうやったら参加できるんですか?」

と話していました。これは町会の広報や人の集め方の問題だと思います。また、"マンション"という住まいの問題なのだと思います。

顔なじみが世代交代しながら祭を運営していく以上、どうしても、地域の人の輪は閉じてしまいがちなのだと思います。地上から離されたマンション住まいの人はなおさら、地域に入っていくのは難しいです。仲立ちする人が必要です。

 

むらかみ

◯玉音放送の「堪え難きを耐え、忍びがたきを忍び」って言葉、それまでの戦争での国民の苦労をねぎらって「よく耐えてくれた」っていう文脈かと誤解してたけど、そうじゃないんだね。

ポツダム宣言を受け入れてしまう以上、これから私達が受ける苦難は計り知れないし、悔しい思いもたくさんするだろうけど、いずれ来るはずの平和な未来のためにいまは「堪え難きを耐え、忍びがたきを忍び」生きる決意をしようっていう意味だね。すごい!

そんな堪え難きを耐え、忍びがたきを忍んだ決意をした人達が描いた未来の世界に生きてる僕は、彼らに対しての責任を取れた生き方ができてるか。

 

 

◯ 気仙で「くっつきハウス」をやるということと、東京で「引っ越しと定住を繰り返す生活(仮)」とか今構想中の「家主リレー(仮)」「シフト性のお茶会(仮)」をやるということは、言ってしまえば同じことのはずなんだけど、なんでこんなに出来上がってくる形が違ってくるんだろう。いずれも、「自らの社会的な立ち位置を知るための場の演出」っていう言葉にまとめられるはずなんだけど、大船渡で家主リレーとかやっても、あんまり効果的ではないような。「家主リレー」は、人がランダムに触れ合う色が強い。

いまある多くの仮設住宅は役所による抽選で近所に住む人が決まってしまうので、すでに人がランダムに振り分けられている状況にある。そこでもう一度ランダムを持ち込んでは効果がない。

あと、「社会的立ち位置」のなかの「社会」ていう言葉の指す範囲が違う。気仙での仮設住宅村でいう「社会」は、おなじ仮設住宅村に住んでるみんなを、改めて「地域社会」と呼ぶことにしよう、という意図がある。

比べて東京では、町を歩いている人に試しに適当に話しかけてみてると、たぶん一人一人ごとに、様々な社会(クラスタ)で生きてる人と当たる。東京では「住んでる場所」で、その人が生きる社会が全て決まるわけじゃないから、むしろ「場所と時間で縛る」ていうルールを加えるだけで、「自らの社会的な立ち位置を知るための場の演出」が成り立つ。

 

東京では、人生観が変わるような奇跡的な出会いの可能性が、自分から半径50メートル以内とかにいつも転がってるのに「いつもどおりの自分」が立てる予定の中だけで生きていては、気がつかない。奇跡と出会うためには自らの予定を、予定を超えた所で立てなきゃいけない。

 

東北の仮設住宅では、抽選によってランダムにご近所が決まってしまって、それが原因で問題になってもいるけど、東京では、人はもっとランダムに振り分けられた方が、奇跡と出会えると思う。

 

東北の仮設住宅では、抽選によってランダムにご近所が決まってしまって、それが原因で孤独死が起きているけど、東京では、人がもっとランダムに振り分けられないばっかりに、自殺や過労死が起きているのかもしれない。

けせんふぇすの期間中、大船渡の海の近くの公園(近くの建物は津波で流されちゃって何もないようなところ)、にくっつきハウスをつくったから、そこで一泊してみたんだけど、そしたら怖い夢をみたんだった。
もうだいぶ記憶も薄れてるんだけど、知らない人がすごくたくさん、満員電車くらいの密度で出てきて、なんかギクシャクした奇妙な歩き方で、僕の前を通り過ぎたり、前から迫ってきたりするの。その人たちは、僕に対してあんまり友好的な態度じゃなくて、ちょっと攻撃的な態度のようにもみえた。
それで夜中に起きちゃって、こんなところで軽い気持ちで寝たのは失礼だったなと思った。翌日、すこしお祈りをして、もうこんなことはやめようと思いました

自分を「アーティスト」とか「営業課長」とかって名乗りはじめた瞬間から、自分という人間を、社会的に「納得がいきやすいグループ分け」のなかに括り付けてしまって、そのときから、その人の「この現代社会の構成員としてのワタシ、スタート」みたいな。あとはその役を残りの人生でどれだけ演じ切るか
おおくの職業は、この社会の継続のためにつくられた「役柄」であって、その「キャスト募集オーディション」に、就活生たちは応募して、そこで落とされたりすると、落ち込んで自殺したりしてしまう。逆に考えてみると、
人は一般的に、いまこの社会に存在している仕事しか認知することができない
そんな演技を、どうにかして暴いて、演技ではない人と人の社会、を探していくのか。全てはイリュージョンであると居直ってしまうのか。
後のロックンスターが、最初は下手なギターを練習して、上手くなっていく過程も、演技の上達なのか。

でも、ライト兄弟が空を飛んだのは、演技でもなんでもない。人が何かを現実に変えていく力。
ロックンロールスターだって、何かを現実に変えていったから、ロックンロールスターになるんだと思う。「演技」と「創造力」がキーワードかも

人が生活するためには、どうしても雨風を凌いで寝泊まりするための家がいるんだけど、その家ひとつひとつの安全性を担保したり、「住所を持つ」というルールを決めたりしないと、この社会を継続するにあたって不安材料になってしまうから、家を作る資格がある人を社会的に決めなければいけなかった。
だから、いまの持ち家や、土地の所有という考え方は、人が生きて幸せになるためというよりも、この社会を継続するために考え出された仕組みであって、この膨らみすぎた経済をまわすために、僕たちは家賃を払っているのか。自分で転がし始めた玉の上に乗りつづけるのに必死になることを強制する。

僕がいわゆる設計の道をそれていったのは、人が住む家、場合によって人生の多くの時間を過ごす家を、他人の自分が設計して、責任が取れるだろうかって考えしまったから。そして、責任を取れる自信がなかった。
たくさんの時間をかけて、考えて、手を動かして完成させた設計だとしても、それがどんなに、施主の生活に寄り添うようなものであると自負できたとしても、自分じゃない他人に対して、ここに住んでくれ、と、押し付けるようなことはできない。
地震が起きて、家具が倒れたりして、中の人が死んじゃったりしたら、それは自分の責任じゃないと、きりすてることはできない。それが工芸品にしてもそう。僕は人に使ってもらうものを作ろうと考えはじめると、どこかで、自分とは切り離して「他人のため」という変なフィルターをかけて考えてしまいロクなものにならなかった。作る相手を自然に自分に設定できれば、良いものになったかな。