2013年6月22日24時54分

 

今日、ガーデンのバイトにいく前に新橋の鉄道歴史記念館(だったかな)に行ってきた。

ジオラマの企画展示を見に行ったのだけど、とても見応えがあった。時間がなくてぜんぜんゆっくりみられなかったから、今度また時間をとっていこうと思う。

ここで思ったのは、ジオラマにいまいちリアリティが持てない(限られた世界の中の技術の比べ合いになってしまっているように見える)のは、僕達がふだん目にしている実寸のスケールから、一気に、ジオラマ内の世界の縮小されたスケールに飛躍してしまうからだと思った。あいだに、緩衝材がないから、そこが別の世界のように見えてしまう。目の直前では実寸大だけど、目から離れるにつれて縮小率を大きくして、ほんの数センチ先のものを、数百メートル先にあるようにみせる。そうしていったら、どんなふうに見えるのだろうと思った。まあだれかがやっていそうなことだけど。

その後バイト。終業後の終礼で、「女子達がぜんぜんうごかなくて嫌になる」的な話を、チーフと、男子スタッフ一人とはなしていた。僕は、全部どうでもいいと思っているし、全員が出来すぎるのもつまらないからこんな感じでいいんじゃないかと思っている。ああ、いま気がついた。彼らは「効率を上げる」ということを無意識のうちに目指そうとしているのだ。演じているのだ。この社会で生き残る為に、無意識のうちに演じている。例えばチーフは、なにか注意することをみつけなければ、と思っている。例えばそこに同席した男子スタッフの人は「自分はできている」という前提で話している。あまりにもその前提で話すものだから、こっちとしても「この人はできていて、他が出来ていないせいなのだな」という考えにすこしずつ変わっていってしまう。面白い。

チーフの方は、これは僕が塾講師のバイトの研修をしたときに、体験授業後の親子面談で、「娘さんはとても飲み込みが早いし、賢いです」的なことを母親にいって、その親子は帰っていったんだけど、その後その塾の先生(社員)から「何か弱点を指摘してあげないと」と言われたのと同じだ。「これが仕事になるのだから」「これがおれの立場なのだから」という、社会的な刷り込みをさせられている。

 

出来ない人間をできるようにするには、「やれ」「もっと動け」と注意すればいいというものではない。それは、「効率的じゃない」。すべて自分の問題なのだ。他人に期待したらダメだ。人がやらないのは、自分のせいなのだ。

6月21日(土)25時25分

 

ここ数日間ずっと雨が降っているか曇っている。じめじめしている。

夜、布団について、あとは寝るだけっていう時に、窓から雨の降る公園を眺めるのはとても気持ち良い。

雨が降ると、ビアガーデンはたいてい中止になる。

今日も一日雨が降っていた。世間的には、今日は金曜日で、予約もたくさん入っていたのだけれど、この雨には、金曜も土曜も平日もクソもないから、関係ないのだ。僕はバイト先で、雨の降る外を眺めながら、もし、僕達人間の世界の金曜日が、一日ずれていたら。つまり、この歴史の最初に曜日を定めるのが、あと一日遅かったら、今日はまだ木曜日で、この予約もそんなにたくさん入っていなかったかもしれない、なんてことを思っていた。

とにかく今日はつかれた。昼寝をしていない。今日は、清掃のバイトから帰ってきてすぐに小津安二郎の「秋刀魚の味」を見たのだ。素晴らしかった。カメラワークと、構図と、脚本、台詞の言わせ方、こまかい動作や小物の配置など、すべて計算されていて、観た後に、強く「体験した」という感じがあった。

映画もだけど、最近、本を見まくっている。実家に帰るまえよりもはるかに速いペースで読んでいる。ひと月に4冊か5冊くらい。次読む本が無くなってしまうのがこわいくらいだ。たぶん僕は、かつて体験した事のない、いまのバイト生活で、精神的なバランスをとるために読んでいるのだと思う。本の中にのめりこむことによって、いまの、フリーターと化して働きまくっている自分を、対岸に置いて、相対化しようとしている。そうせずにはいられないのだと思う。いまのところ僕が読みたいのは、物語に限っているし。

2013年6月18日(火)25時24分

 

今日も一日バイトであった。ビアガーデンのバイトでちょっと久しぶりにチーフに会う。この人がいろいろ細かいことをぶつぶついってくる人なのだけど、今日も相変わらずであった。僕は、この方法は、スタッフを育てるのに有効な方法ではないと思う。僕は支配人のやり方の方が好きだ。まずは、自分で考えさせて、うまくいけば褒めて、失敗したらその責任を自ら取る、っていう方が断然効果的だし、部下からも好かれると思う。支持をだせばそのとおり動くというわけではないのだ。人間は。それぞれに誇りを持っているし、それぞれ得意な「やりかた」があるし、自信もあるはずなのだ。いろいろ細かくいわれるせいで終始緊張してしまい、うまく体が動かなくなるせいで自分の力が十分に発揮できず、それでまた怒られてしまうという循環に陥っていると思う。

 

猿がだんだん立ち上がって、人に進化していくあの図で、人の後にお墓があるという絵が思い浮かぶ。

2013年6月17日(月)20時53分

 

今日はガーデンのバイトは休み。希望休で休みをもらった。吉原芸術大サービス2014の助成金二次審査があったので、そこに行って来た。といっても僕は一言も話さず、顔だけ見せるという感じだった。

その前に、清掃バイトの帰りにお茶の水のレモン画翠にいって、遠足プロジェクトの材料を見てみた。

そこでは結局、下手にジオラマを真似るよりも、紙でつくるのがベストという結論になって、ほとんどなにも買わずに(カッターの刃だけ買った)出て行った。

助成金審査の帰り道、上野公園に寄ってみると、不忍池が、通行人の多くが足を止めて眺めてしまう程、美しかった。数百メートル先まで、びっしりと茂った蓮の葉に、傾いた陽があたっている。遠くには高いビルが並んで建っている。僕は遠足プロジェクトのことを反射的に思い出して、これをつくろうと思った。この遠近感、この距離を、29センチのランドセルの中に閉じこめたい。

これでようやく決まったような気がする。でも、時間がないぞ。

なんだか、最近暑さのせいとか、ベッドのある部屋に制作場所を置かざるを得ないせいか、遠足プロジェクトの作業がぜんぜんすすまない。まあいろいろ理由を付けているけど、結局僕自身の必死さがたりないだけなのだ。やっかいな展示を引き受けてしまった。。

僕は何がしたいのか。本当に美術を一生やっていく気があるのか。

クーラーがこわれている。たぶん、フロンガスがぬけている。

最近、こわくなってきた。おおきな壁が目の前に出現したような感覚がある。八方塞がり。

 

実家には、弟も住んでいる。彼は、ブレイクダンスを相変わらずやりながら、相変わらずドミノピザでバイトをしている。ダンスをこれだけ長い間好きでいられるのはすごい事だと思う。たぶん毎日筋トレをしているのもあって、体格がすごくよくなっている。タンクトップなど着るようになってきている。けど似合わない。なんだか無理してタンクトップを来ているようにみえる。いや、体格はタンクトップを着るにふさわしいのだけど、なんだか根本的に無理があるような、へんな感じがする。昔の豊を知っているからなのか。わからない。そのファッションを実家でやられてもなあという感じもする。いつだったかもーりーから、ジンヨハネスさんが実家暮らしだと聞いて衝撃を受けた事を思い出した。いま。

そういえば僕は昨日眼鏡を買った。この眼鏡も、彼女に「似合うよ!」と強めにいわれて、僕もまあ悪くないような気がしたから買ったけど、本当によかったのかわからない。なにもかもわからないぞ。

2013年6月15日(土)25時10分

 

雨が降ってる。今日もガーデンのバイトがあった。天気予報は夕方から雨だったらしいけど、結局夜まで降らず、ガーデンは通常通り営業した。

最近、天気予報が全然あたらない。

いまお花茶屋は雨が降っている。良い雨だ。さぁーっという感じで降っている。部屋の中から雨が降っている外を眺めるのは、とても気持ちよい。これだけ気持ちよければ「雨が好き」といっても許されるような気がする。

今日、バイト帰りにいつも通り缶ビールと無印良品のおつまみをファミマで買って、新橋の駅前あたりまで歩いていて、京浜東北線が道路のうえを走っていき、その下にはタクシーと、信号と、行き交う人々。その上には、高いビルが何棟か見える、そんな風景を見たとき、なんだか、悟りを開いたような、穏やかな気持ちになった。僕達人間は、何世紀もかかって今日の生活を手に入れたのだ。それは、何世紀も前から、一人一人の人間が、なんとか今日までバトンをまわしてこれたから、成り立っているものだ。でも、彼らはみんな死んでいった。そして僕たちも、まあうまくいけば、バトンを次の人に託して死んでいく。最後には死んでいくのに、なんのために、ここまでの生活を手に入れることができたのか。それはたぶん、生きていて、なにもせずにはいられない、前に進まずにはいられない人達がたくさんいたから。彼らは、「自分はどうせ死ぬから」といって、何もしないわけではなかった。

そして、今日にいたるまでの、ヒトの進化は、一人一人の体の中に宿っているのだ。ひとりひとりが、小さな単細胞生物に始まって、地球の歴史と共に、ほ乳類になり、チンパンジーになり、人になっていった歴史を背負って今生きているのだと思った。これは何かの比喩とかではなくて、事実としてそうだといえると思った。まちゆく一人一人が、数千万年という生物の進化の歴史を背負っている。それに気がついたとき、目の前にすごい光景があらわれたような気がした。

2013年6月12日(水)24時39分

 

今日は、関西から東京に来ている津川まぁ子ちゃんから誘われて、「第4回うんこ映画祭 うんこフェス」なるイベントに行ってきた。僕はまぁ子ちゃんのゲストとして入れたから無料だったけど、普通にいったら2000円以上払わなくちゃいけないイベントである。

内容は予想通り(?)ひどいイベントだった。驚くべきは、イベントにそれなりの人数のお客さんが来ていたことと、みんな楽しそうにしていたということだ。

僕は「美術」「表現」について考えざるを得なかった。遠藤周作の「沈黙」を読み終えたばっかりだったからか、このうんこイベントは、日本の一部の(ある種の)人達が美術と言うツールを手に入れてから、少しずつ時間をかけてこのような形になるまで、極端に偏って解釈していった結果生まれたイベントだと解釈してみた。

とにかく、こんな世界があるということは、まぁ子ちゃんから話で聞いてなんとなく知っていたけど、実際にいってみると、まあひどいものであった。でも、あれに救われている人もたくさん居るのだと思う。本当にいろんな人がいる。

最後まで居られず、途中で帰ってしまった。

2013年6月11日25時10分

 

「吉原芸術大サービス2014」の打ち合わせからかえってきた。

ついさっき「今日は夜に打ち合わせがあるなあ」と思ったばかりのような気がする。

それから今まで、なんか別の人が僕の体に入っていたみたいな感じである。今日は打ち合わせがあるなあと思っていたときと、今の「心の様子」は似ている。これが人と会って話す、ということなのか。人と会って話すと、それ仕様のスイッチが頭の中で切り替わるような、そんな感覚。そして、より深く思考の中に潜り込んでいけるのは、一人のとき、いまのこの頭の状態のときだ。夕方に寝たからあんまり眠くないし、お腹もちょっと減っている、という感じ。この時が、思考が深く潜り込みやすいと思う。

毎日バイトをしていて、職場でいろんな人と接したり、仕事嫌だなあと思ったり、もっと遅くまでおきていたいけど、明日朝早いからもう寝なくちゃ、等と思っていたりする。

2013年6月8日24時17分

昨日のバイト終わりから今日にかけて、御殿場に富士山を見に行った。遠足プロジェクトの制作のためもあって、観る必要があったのだ。新橋から23時57分発の東海道線に乗って国府津に向かったのだけど、戸塚で、何故か突然猛烈に気持ちが悪くなって、お腹が痛くなり吐き気もでてきて、たまらず電車を降りてしまった。

駅のトイレに駆け込んでなんとか収まった。けどもう電車がなかったので、国府津には行けず、戸塚の漫画喫茶で一晩明かした。

寝たのは1時過ぎだったけど、五時ごろには目が覚めた。最近、ながくても4時間半眠ると目が覚めてしまう。でも、漫画喫茶で目覚める時の、「ここはどこだっけ。俺はどうしたいんだっけ」みたいな、右も左も過去も未来も分らないような感覚は嫌いじゃない。

 

そのあと御殿場までいった。駅には登山客らしき人が十数人居た。外国人3人組が「フジー!」と叫んでいた。

富士山がよく見える所まで、バスもつかいながらのぼっていったけど、何故か富士山の周りだけ、まるで山を隠すように厚い雲がかかっていて、まったく見えなかった。

1時間くらい、待ってみたけど、雲はとれなかった。僕が居る所は日が射していたのに。でも、思い立って自分がいる場所の標高を調べてみたら、600mちかくあった。

「富士山は見えない」と思っていたけど、気がつかないうちにすでに富士山のうえに立っていたのだ。

富士山は、見るものでもあるけど、登るものでもあり、また営みを載せるものでもあった。この感覚は、いってみないと分らなかった。なんていう勘違いをしていたんだろう。

いまこの日記を書いているこの東京都葛飾区の僕の家も富士山の上にある、という見方もできなくはないと思う。

というか、本州全体だって、富士山に載っているという言い方もできる。どこからどこがこの山で、どこからどこがあの山で、なんて、人が恣意的に、話をスムーズにするための便宜上、区別しているにすぎない。

何日か前に、気象庁が「梅雨入り宣言」とやらをしたけど、その宣言を聞いてから今日まで、雨の日があった記憶はない。ずっと晴れているか、曇っているかだし、しかも毎日暑い。「この日から梅雨です」なんて判断はそんな明確にできるはずはないと思う。それと富士山の話もつながっているように思う。

でも富士山は、晴れた日にもう一度いきたい。

2013年6月6日(木)25時10分

僕達は、すぐに「共通の敵」をつくりたがる。僕も、ちょっと油断するとある人を、他の人達と一緒に敵に仕立ててしまいそうになる。

あぶないあぶない。それだけはだめだ。もっと大きく相対化するのが僕の使命なのだ。社会の中に収まって自分を相対化するようなみみっちいことはしてはだめなのだ。

2013年6月5日25時12分

さっきバイトからかえってきた。キッチンには、僕の分の晩ご飯が残してあった。本当にありがたい。ガーデンのバイトは、たくさん入ってるだけあって、他の人達よりもだんだんまわりが見えるようになってきたと思う。

同じバイト仲間や、上司も、みんな、それぞれに「信念」を持っている。それを自覚していない人がほとんどだし、あんまり褒められたものではないものも在るけれど、それぞれ「ここは譲れない」という思考の"こり"のようなものをもっている。それは、信念と呼んで差し支えないと思う。

それはそうと今日、北海道のれいこおばさんからの葉書によって、村上家のルーツが、瀬戸内海の淡路島にあることがわかった。僕の曾曾おじいちゃんは、淡路島の人で、船大工の名士だったらしい。

なんだか、僕が四国の高松とかに行くつもりになってるのも、四国に行くイメージが思い浮かべやすいのも、もともと瀬戸内海の血をひいてるからなんじゃないか、という気がしてきた。すごい。百数十年ぶりに、四国に帰るのだ。おじいちゃんから、曾曾おじいちゃんが住んでいた家の住所を聞いておかねばならない。

2013年6月5日(水)10:15

 

今日清掃のバイトからの帰り道で、ふと思いついた。このバイトを始めてからずっと、清掃というのは社会の底辺の職業なんじゃないかと思っていた。「極めて優秀な清掃スタッフ」なんて聞いた事がないもの。母親にその事を話すと、「そうだと思うよ。だって、自分の息子が清掃のバイトしてるって、人に言えない。いくらそういう時期だと本人が言っているといっても」と言っていた。

しかし清掃員は、まちの至る所にいる。ちょっと注意して観察してみると、マンション、駅、公衆トイレ、公園、テナントビルなど、しかも、だいたいみんな同じような制服を着ている。これはすごい発見である。六本木ヒルズの清掃員も、僕と同じような制服を着て作業しているに違いない。もしかしたら、ドバイの超高層ビルの清掃員も。

清掃員は、この社会の底辺に近い職業であると同時に、どこにでもいる人達でもある。(その社会が成熟しているかどうかは、もしかしたら、清掃員がまちに居るかみてみるとわかるかもしれない。)半ばアイコン化した、誰が見てもそれとわかる制服を着ている人達。清掃員は、カバコフが「ハエ」と呼んだものたちと同じかもしれない。あらゆる階層を縦横無尽に移動している人達。闇の組織。朝、誰よりもオフィスに入るのは、その会社のスタッフではなく、清掃員である。そんなことができるのは彼らだけだ。どんな人間でも、あの服を着ていれば、その人は社会活動に参加している、とまわりに思わせる力がある。

もしかしたら交通整理の人達もそうかもしれない。いつか、どこかで知り合ったおばちゃんが、自分の、交通整理員のパートタイマーだったころの過去を、さも恥ずかしいところを見せるかのように話していた。どこで話したんだっけ。全然思い出せないけど。

2013年6月4日(火曜日)17時22分

すっかり日記の更新をさぼってしまっていた。

これからは、パソコンを立ち上げたままおいておこうと思う。少しでもいいから、毎日書けるように。

今日はガーデンのバイトが休みで、16時頃まで昼寝していたのだけど、夢で内田樹さんが、何故か美術作家の設定で出てきて、「実態縮(じったいしゅく)」という概念を僕にレクチャーしてくれた。それは、ものの表面的なかたちではなくて、ものの「実態」を縮小するという制作方法で、なんか透明なグラスが三つ逆さまに重なって溶け合っているような作品と共に説明された。

なんだか最近、こういう不思議なアイデアや音楽のフレーズが夢に出てくる事がおおい。でもたいていのアイデア達は、現実ではあんまり使い物にならない気がしている。

これから僕は、遠足プロジェクト用の写真をメールで送り、プランと制作方法を決定しなくてはいけない。このぶんだと、だいぶ前から制作を始めないと七月後半に間に合わない。あと、×日町のプランもまとめて送らなくてはいけない。

なれない生活をはじめて、体が疲れている。通勤定期をはじめて買った。こんな風に平日はほぼ毎日仕事にいって、日曜日は休みという、社会では一般的な生活をしていると、まったく、この国のこの社会はうまくつくられている、と思う。仕事をしてお金を稼いで、家賃を払ったりご飯を食べたり、眼鏡や服を買ったりする。お金を稼がないと生活ができないとされている、資本主義のシステムが、人間をうまくコントロールするために、本当によく考えられている、というか、いまはよくまわっているというか、そんな感じがする。平日は働いて、週末に家族や恋人と会って、外食に行ったり、デートしたりする。そしてまた平日になり、がんばって働く。職場では、それぞれ家族や恋人を持った人達がいて、彼らとの話題はテレビで流行っている芸人のギャグであったり、映画や音楽やスポーツであったりする。まあ、恋人や家族との話題も、たいして変わらないのかもしれないけれど。そうやって、人間をコントロールして仕事をさせて、経済をまわしていくこの仕組み。巨大なシステム。この巨大なシステムと、歴史が、抵抗する隙を与えず、僕達をのみこんでいる。この巨大な波にのまれ、クラゲのように漂う人々や、サーファーのように楽しむ人々、流れに逆らってとんでもない所にいってしまう魚のような人々、いろんな人がいる。

僕のバイト先の上司達。彼らは、もはやその他の場所で生きていくことができない。その場所に長く居る事によって、力と責任が与えられ、それが幸せなことだと心から感じで居る。彼らを笑う事はできない。それは、彼らにとって、心からの幸せだから。それをだれが否定できるだろうか。