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ここらは越喜来の南区というところで、わいちさんは越喜来南区の区長らしい。すごい区長だな。こんな区長ならどこまでもついていきたい。ここらも復興という名目でやたら大げさな工事が行われている。陸前高田と同じだ。堤防が高くなって海が見えなくなる。まちの人たちは一人一人の声が届かないことにうんざりしている。わいちさんは「ここ1年で一気に景色が変わりはじめたなあ」って言ってた。

今日は、津波にさらわれた跡地に花壇をつくり羊を放牧する「リグリーン」という試みで作られた花壇を別のところに植え替えるという作業を手伝った。なんでもこの花壇のあるところがかさ上げ用の土砂置き場になるためやむなくうつさなくてはいけないらしい。なんか陸前高田でもこんな話を聞いたような。。で、高校生が40人くらいボランティアで来ていて僕もそこに混ざった。みんなえらい。友達と話したりしながらも、ちゃんと土をさわって作業をしている。女の子が多いなあと思って聞いてみたら、そもそも女子の方が多い高校らしい。そんな女子高生二人とすこし話をした。その二人は高校にあるJRCという部活のメンバーで、普段から老人ホームのお手伝いなんかのボランティア活動を部活動としてやっているらしい。岩手県はそれがとても多いらしい。そんな部活があるのか。偉すぎるな。

お昼休みのとき、高校生達が誰に言われるでもなく潮目に集まって遊びはじめたのがすごく良かった。「ここから登れる」とか「そこ滑るから気をつけて」なんて声があちこちから聞こえた。すごい。潮目は、公園にあるアスレチックとかジャングルジムみたいな洗練された安全な遊具ではないのだ。釘も飛び出してるし、床も抜ける可能性がある。木登りしてるみたいに、あるいは山の雑木林を降りるみたいに遊ばないといけない。そこが楽しいんだ。注意しないと下手したら釘が頭に刺さったりもする。それで破傷風とかになって死んじゃうかもしれない。でもそこが楽しい。ここをこう通るとか、ここには登れないとか登れるとかっていうものが設定されていない。基本的に「自己責任で遊んでください」っていうもの。だから「そこ滑るよ」とか「こっから登れるよ」とかっていう会話が自然と生まれる。すばらしいな。わいちさんもごく自然にその中にとけこんでいって「そっから入れるべ」とか「これが滑り台になっててな…」なんて言って笑っている。良いなあ。

あまりにもみんなが集まっているから、そのまま集合写真を撮ろうと先生や大人達がカメラを構えて「こっち向いてー」とか「こっち集まって」とかって声をかける。うん。すごくその気持ちはわかる。写真に残してあとで見返すのも楽しいと思うし、それは活動の報告としても必要なんだろう。でもその写真をとるためにわいちさんや高校生たちが笑いながら話したり遊んだりするのをちょっとでも中断するのはすこし悲しい。「こっちむいてー」なんて言わずに、遊んでる姿を撮るだけじゃいけないのか。ていうか記録写真てそういうために撮るんじゃないのかな。写真を撮るために、そのときの行為を一旦中断してこっちを向かせるってどうなんだろう。そのままあえて写真には残さずに遊ぶだけ遊んで、記憶だけに刻み付けておいてほしいという気持ちもある。まあでもこれはすごく個人的な考えなんだろうな。写真とるのも楽しいしな。どっちでもいいな。

夜は南区公民館で寝かせてもらう。越喜来のとまり地区というところを手伝いにきてる東海大学の学生たちも一緒。でもほとんど全く会話をしなかった。こういうとき「何しにきてるのー?」とかって話が自然にできればいいのだろうな。

東京の友達との他愛もないメールのやりとりのあと、何故か落ち込んでしまった。まだまだ弱いな。油断するとすぐに自信を失う。自信を失ってはいけないのだ。大丈夫。このやり方は間違ってない。あとは、移動していることに自分で気がつかなくなるまで移動し続けるだけでいい。
一人で潮目にきて、近くのお店でご飯を買って、瓦礫になってたのをわいちさんが持ってきたという非常階段の上にすわってご飯を食べていた。そこか ら潮目と、そして越喜来のまちを眺めた。ここもひどく津波にやられている。かなり高いところまで波が来たのがわかる。で、この潮目はその波で生ま れた瓦礫を使って建てられた建物だ。真ん中に柱が立っていて、そこに「越喜来 南地区 復旧拠点」と書いてある。鯉のぼりもぶら下がってる。ここ から他に瓦礫で作った滑り台とブランコ(津波で瓦礫になった船の底を使ってブランコにしている)と、記念写真を撮るために作ったというパネルも見 える。この記念写真スポットは、津波のため取り壊しになった近くの小学校の正門(わいちさんがひっぱってきたらしい)と、笑っている鬼が描かれた パネルでできている。みているうちに自然に涙がでてきてとめられなくなる。すごい作品だ。彼はこれを本当に純粋にここの子供とまちのためだけにつ くったのだ。大船渡の焼きそば屋のおばちゃんはわいちさんのことを「彼は人のための人だ」と言っていた。彼は自分が評価を受けるためでもなんでも なく、ただ子供たちまちの人たちのために、自分の仕事が休みの日を使って潮目をつくった。仕事が無くて暇だからつくったんじゃない。このために人 の敷地を借りた。あちこちで釘は出っぱなしで、雨漏りもすきま風もあるけど、内部はちゃんと僕が泊まれるだけのスペースと、パソコン作業ができる 机とイスまである。机は家の梁でできている。ちなみに2階建て。これを仕事のあいまにつくったのだ。潮目は津波の資料館としての機能だけじゃなく て、滑り台やジャングルジムやブランコがある遊具としての機能や、漫画が読める小さな部屋もある。
資料館としての普通の入り口の他に秘密のいりぐちがあって、そこのドアには「押す」という表示があるのに引かないと開かない。良いな。飛び出した 釘やら木材やらに気をつけながら狭い通路を通って階段をのぼると、黒いカーテンが下がっていて一部に切れ目が入っている。そばに「のぞいちゃダメ だよ」ってシールが貼ってある。さっきのドアの表示のこともあり、ここはのぞかせようとしているのだなと思う。カーテンをのぞいてみると奥に白い 写真が貼ってある。その写真には、派手な色のアフロのかつらと馬鹿みたいにおおきなサングラスといったパーティーグッズを身につけたわいちさんら しき人がうつっていて、こちらに向かってピースをしている。写真の下には
「わっ!見たなあ~」
と書いてある。うわ。やられた。ここでも突然涙が出てくる。かっこよすぎるだろこの人。こんな人がいるなんて。もういい年のおじちゃんなのよ。こ の人に美術なんて言っても全く通じないだろう。美術とか建築の価値、評価について考えなおしてし まう。こういうものをこそ「みんなの家」って呼ぶべきなのでは。
衝撃をうけると同時にすごく勇気づけられる。そうだこういうやりかたでいいのだ。自分のやりかた を信じればいいと教えてくれるし、自信を失ってはいけないと勇気づけてくれる。 落ち込む暇があったら。「無力だ」なんて嘆くひまがあったら、山積みの瓦礫を使って自分の空間を立ち上げろ。そして、そこがこの町の復興拠点だと 名乗れ。そういうことを教えてくれる。 陸前高田の佐藤たね屋さんは瓦礫をつかってお店とビニールハウスを作った。井戸も自分で掘って、たね屋には欠かせないであろう水もちゃんと湧いて た。水道がとまったからといって水がなくなる訳ではないのだ。
「ここらは5メートル掘れば水が出てくる」
「意外と人は死なないんだ」
って言ってた。なんてこった。
わいちさんは瓦礫をつかって休日を返上して遊具と資料館をつくった。橋もつくった。
「誰かがひとりでやって、あとでみんなで話し合えばいい」
って言ってた。すごい。
今日はその潮目に泊まってみる。今まで人が泊まったことは無いらしい。僕が泊まることによってここは家になる。そうすることによって僕はここを 「家120」として描くことができる。ちょっとこじつけたようなやり方だけどこれは描かないといけないから。

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仮設住宅で1日過ごしただけで、ここの人間関係の複雑さを思い知らされた。もちろんここが他と比べて特殊なんだろうってことはなんとなくわかるけれど。そうなるのも無理もないなと思う。もう仮
設住宅での生活は4年目に入ってるのだ。自分で家を見つけたり公営住宅が当選したりして出ていった人もいるけれど、まだめどがたってない人もいる。1日しかいないけど疲れてしまった。。

12時頃仮設住宅を出発。越喜来(おきらい)というところに向かう。ここから14キロくらい北上 する。以前ネットで僕の活動を知った人が「越喜来に潮目という所があって、ぜひ行ってほしい」と 教えてくれて、現地の人たちに僕を紹介してくれたのだ。夕方に越喜来について「潮目」をつくった ワイチさんとそのご家族に会う。
潮目というのは瓦礫で作られた建物の名前で、ワイチさんがセルフ ビルドでつくったもの。これもまたとんでもない傑作だった。瓦礫でつくられた、津波資料館と遊具 を兼ねた2階建ての建物。何人もの人に連れられてきたからこそ大泣きはしなかったけど、一人で来 ていたら号泣していただろうと思う。もう日が落ちていて暗くなっていたので、この潮目はまた明日 ゆっくり見ることにする。
ワイチさんはすごい人で、建設業の仕事のかたわらまちのためにいろいろなことをしている人だっ た。根っからの「人のために動く人」だった。印象深いのは丸太橋の話。津波でダメージをうけた、 そんなに大きくない橋があって、危ないからと役所が撤去した。すぐに新しい橋が架けられるものだ と思ってまっていたけれど、いっこうに橋がかからない。
「みんなが不便なままだ」と、しびれをき らしたワイチさんが個人で丸太で橋をかけた。「自己責任で渡ってください」という注意書きを添え て。そしたらそれを役所が見にきた。ワイチさんは「危ないから撤去しろ」と言われるのを覚悟して いたらしいけれど、そのとき役所の人は「丸太1本じゃ危ないから、もっとたくさん丸太を使って安 全に渡れるようにしなさい」と言ってきたらしい。なんだそれ。面白い。
「こういうのは誰かが一人でやって、できた後にみんなで議論すればいいんだ」
って言ってた。その通りだな。僕がここ最近ずっと考えていたことだ。ここでつながった。なん ども書いてるように、公共の議論は、個人の行動からしか生まれない。こうやってしか公共は生み出 すことはできない。「一人公共事業」を地で行っている人だと思った。川俣正さんみたいだ。いや川 俣さんがワイチさんみたいだ、って言った方がいいのかな。こういう行動の仕方を美術の場で出力し ているのが川俣さんなんだな。
夜はワイチさんたちのすすめで、近くに住んでいる「先生」と呼ばれている方の家に泊めさせてもら う。家は潮目に置かせてもらう。

東京からのお客さんと陸前高田をまわる。昼過ぎに佐藤たね屋さんというところを訪ねる。こっちに住んでる友達が教えてくれた人。
「すごい人だと私は思うよ」
と教えてくれた。 佐藤たね屋さんのまわりにはほとんど何もない。佐藤さんだけ自分でプレハブでお店を建て直していた。ひさしなどは瓦礫を使って作られていた。震災で流された家の基礎の上に それは建っていた。店の外観からすでにただ者ではない感じを醸し出している。お店の中は普通に種を売っているのだけどその一角に本が売られている。店主の佐藤さんが英語と 中国語で書いた震災についての本。何故か日本語のものが見当たらないので、聞いてみたら
「日本語では書けなかった」
と言っていた。彼はその本を朗読しはじめた。割と簡単な英語で書かれていたので読もうとすれば読めたのだろうけれど、彼の朗読があまりにも勢いが強くて一言ごとに口から言 霊が飛んでくるようで、内容が全く頭に入らない。彼はその後そとにあるビニールハウスを見せてくれて、作った当時の話を聞かせてくれた。このビニールハウスがまたとんでも ない傑作で、当時身の回りにあった限られたものを材料として使った結果生まれた工夫がいたるところにあった。切実さの固まりみたいなビニールハウス。アルミ缶のふたをジョ イント用の金具の代わりにしていた。これがやばかった。本当に限られたものしかないときのアイデアだなと思った。ドアは窓枠に使うサッシにビニールをはったもの。みんなが あれができないこれができないとあたふたしている時に、この人は一人でこれをつくっていたのか。とにかく雨風をしのげるものを、あるものでつくればいいのだ。
「男は見とけ。このアルミ缶のふたがジョイントになるんだ。天井のこれはパイプを使ってるけど、パイプがないなら竹でやればいいんだ。竹は熱すれば曲がるから。で、天井に はビニールをはれば、寝泊まりくらいはできるんだ。そしてこいつは地震では絶対に壊れない。地面と一緒に揺れるから。縦にしっかりと作るから壊れちまう。戦争よりひどい状 態だった。サバイバル精神を発揮しないといけないんだ。そういうのはやっぱり男がもってるんだ。」 これを聞きながら泣きそうになってしまった。この台詞は外で聞いた。まわりは復興工事のダンプカーがたくさん走っていてかなり騒々しい。佐藤さんはとても大きな声で話をし た。一言一言がとても切実な響きを持っていた。すごかった。本当に凄かった。
彼は土地のかさ上げ工事のことを 「あの工事は住民のためっていうよりも、雇用をつくるためにやってるようなもんだ。だから行政のことはあんまり相手にしてないんだ。勝手にやれって思ってる。」
とにかくとんでもない人だった。殴られたような衝撃をうけた。
夜、家の置いてある仮設住宅のゲスト用の部屋を借りて泊まらせてもらう。やっぱり仮設住宅は壁が薄くて、窓の外の話し声なんかも聞こえて、ちょっと疲れるな。

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朝、東海新報の取材をうける。話していると自分でも整理がついてくる。いままで考えてきたことが、陸前高田の風景とつながってくる。
最近 ずっと「現場を動かすための装置•システム」と「なまの現場」の断絶のことを考えているように思える。 思い出すのはフリーター時代に大手企業が経営してるビアガーデンで、雨が降っても店を中止する判断がすぐに下せないために、外に並んで いるテーブルを雨のなか拭くという謎の時間を過ごしたこと。香川のバイト先でデザートをつくっているとき先にココアを入れてもダークチョ コレートを入れてもできるものは同じなのに、先にチョコをいれないとだめだと言われたこと。そのときチョコを他の人が使用中だったとし ても。これらの問題を考えるとき、十数前の福知山線の脱線事故がつながる。遅れたダイヤにあわせようとして速度を出しすぎた結果大勢の人 が犠牲になってしまった。もともと現場を安全に円滑にまわすためにつくられた装置が、ともすると人を操ってしまう。現場よりもその装置 に合わせる方が大切だという思考になりやすい。
中学生のとき先生が
「誰が見ても明らかに車が走ってない時は、赤信号で渡ってもかまわない」
と言ってた。
「だって信号は交通を整理するためにつくられたものだから」
そのとおりだと思った。そしてこれと同じ構図で生活のことを考えてみる。家の基礎は「装置」の側に属しているもので、上にのっている壁と 屋根でできた箱は「現場」に属しているもの。装置があるがために動けずに現場で多くの大切なものが失われてしまったのが先の、そして今も続いている震災のような気がしている。 そして山から土をけずって低地に送るための、陸前高田のこの巨大なパイプライン。装置によって考えられたものが、現場に直接落とされたら こういうことになるのだ。この現実離れした滑稽さは、この装置と現場の断絶からくる。そして家を担いで移動生活しているこのあり方は、こ の断絶を「むりやり現場の側から埋めようとした結果おこる」滑稽さがある。だから、陸前高田のパイプラインの滑稽さと、家が歩いている 滑稽さは少し似ているところがあると思う。

さて今日はお昼前に花畑のみんなと別れて大船渡に移動。知り合いが住んでる仮設住宅に向かう。途中で東京からのお客さんと合流。あっち は豪雨らしい。こっちはめちゃ晴れている。 この仮設住宅にくるのは1年半ぶり。
もう震災から3年経っていて、今では仮設を出て行ったひともだいぶ多いらしい。かつては復興に向け てみんなでがんばろうって感じで賑やかだったけれど、いまはもうそれぞれ自分の家の準備したりで黙々と忙しい。そんな「復興にむけてが んばろう」て言ってなんかやってる場合じゃない。あれ、なんかおかしな話だな。なんだこれ。それを復興っていうんじゃないのか。 「復興」っていうけれど。それはしばしば、とても派手なイメージをもって語られるけれど、本当はとっても地味で目立たないところでおこ ることじゃないか。生活って地味なことだから。派手なことじゃないから。その生活が立て直されるっていうことなんだから。復興ってとて も地味なことなんじゃないか。あんなふうに、10メートルも地面をかさ上げするようなことじゃないのでは。 まあいいか。で、今では住宅内の人間関係もいろいろと複雑になっている。そりゃそうなるよなあ。何が正しくてなにが間違っているのかが とてもわかりにくい。 そこですこし話しこんで、夜はこっちに住み着いてるアーティストの友達二人と合流。仮設屋台村で久々の再会もあった。嬉しい。みんなちゃ んと覚えていてくれるのだ。覚えていてくれるっていうのは嬉しいな。自分の存在を証明してくれるよう。
夜は友達二人の家に泊まらせてもらった。美術や建築の「生まれる現場」と「価値付けされたもの」の断絶の話などした。久々にこういう話したな。二人の家はとてもおかしな間取りをしていた。風呂よりもトイレの方がひろいんじゃないのか。

明日東京から取材にきたいという雑誌の編集者がいて、その人とは大船渡で待ち合わせのため今日も陸前高田に滞在。午前中はずっと昨日描いていた絵に加筆していた。
午後、昨日の花畑(津波で流された後をその地域の人たちがボランティアで花畑にしているところら しい。こういうオープンガーデンは他にもいくつかあるみたい)のところでお昼ご飯をいただく。そ こで、震災前に陸前高田の町並みを絵にしたという人と出会った。その絵は津波で流されていまは行 方不明なのだけど、展覧会のときの写真が残っていてそれをみせてもらった。僕も使ってるような水 性の細いペンで輪郭線を描いてから水彩で色付けしていて、なんとなくタッチが似ている。高田の町並みを、ひとつながりの巻物みたいにして描いていた。その絵は、陸前高田に対する愛とか親しみと かが描かれているように見える。ながいながい時間をかけないとこういう絵は描けないなあと思っ た。話を聞いてみると、例えばお店をたたんでしまった建物でもシャッターは開けて描くことにして いたらしい。お店をたたんだ本人がその絵を見たときに少しでも嫌な気持ちになるかもしれないか ら。建物の外壁とかがはがれていたら、それはそのまま描かずに絵の中では奇麗に直して描く。それ も見た時に嫌な気持ちになってほしくないから。すごいな。大変なものが失われてしまった。実物をみてみたかった。
その人は他に自分が住んでる仮設住宅の間取り(どこに何が置いてあるかまで描いてある)を描いた 年賀状も作ってた。これもやばかった。「あけましておめでとうございます」という文字の下に家の 間取りが描いてあるのだ。しかも仮設住宅だ。もう仮設生活3年目の間取りだ。すごいセンスだ。楽 しんでいる。かっこいい。

今日も昨日と同人のじところに泊めさせてもらう。彼は、人が元々どこの血を引いてるのかというル ーツに対してとても意識的な人。そういえば昨日も会ってすぐに「村上って言うけど、もとはどこの 村上なんだ」と聞かれた。僕は最近自分のルーツが淡路島にあることがわかったから答えられたけ ど、普段あまり考えないな。でもそこに対して意識的であることはとても正しくて必要なことかもし れないな。自分の先祖はどこの人なのかって、まわりの人は普段考えてないようにみえる。その人は 「あんまりこだわると親戚が増えすぎちゃうんだけどな」とも言ってたけれど。なんだか不思議なん だけど、そこで寝泊まりするのはとても自然なことのように感じた。彼は津波で家族を失っている。 僕は「画家です」って言うと、いつも「画家の卵」とか「将来は画家になる人」って言い換えられち ゃうんだけど、彼は人が僕のことを「画家の卵」って言ったのに対してわざわざ「いや、この人は画 家だよ」って言ってくれた。

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ここらは訛が強いながら、みんな共通語と使い分けながら話をしてくれる。昨晩泊まらせてもらった家で最年長のおばあちゃ んはもとは気仙沼の生まれなのだけど15年以上東京で客商売をしながら暮らしていた時期があるらしく、その間に方言や 訛が消えてしまったらしい。
でもこっちに帰ってきてから、近所の人たちに合わせるために必死で方言と訛をおぼえなおし たらしい。大変だな。

例のお姉さんが、ここから陸前高田までのあいだに狭いトンネルがあって危ないからと、家に軽トラを積んで高田まで送っ てくれた。運転しながら 「田舎の家って広いじゃない。だから壁の向こうが隣の家だなんてことは今ままで無かったから、仮設住宅に暮らしてると ノイローゼになっちゃうの。なるよねえ。」 と、すこし唐突に話し始めたの印象的だった。仮設住宅の壁は薄いから特に子供がいる家庭なんかは、隣に迷惑がかかって るんじゃないかと気にかけてしまうのだろう。そしてそういうことに慣れてない人がたくさん仮設に入ってるのだろう。い まだに。
陸前高田のコンビニでおろしてもらい別れた。「また会えるといいね」と言ってくれた。僕はこのときトラックが気仙沼 に戻るのを見送るかたちになる。いつもは見送られる側だから意識することがないのだけど、こうしてたまに見送る側にた つと、見送られる以上に寂しい気持ちになる。なんでだろう。見送る側の方が別れがつらい。すこし気を取り直すのに時間 がかかる。
しばらく休んで納豆巻きを買って食べた後、やっとコンビニを出発。陸前高田は1年半ぶりに来た。ここは津波 で町ごとさらわれてしまったような土地。広大な範囲が更地になっていて不自然なくらい遠くまで見通せる場所だったけ ど、すこし様変わりしていた。どうやら土地のかさ上げ工事が始まっていて、赤茶色の土があちこちで盛られていた。あと で聞いたのだけど、10メートルくらい地面を高くするらしい。話が途方も無さすぎて現実味がもてない。ここら一帯が1 0メートルも人の手によって持ち上げられるなんて。試験的に計画の高さまで盛ってみたのであろう場所が1区画あって、 とても高くみえた。あんなところまで持ち上げるのか。全然違う土地になってしまいそうだ。自分たちが住んでいた土地を 土に埋めるということだ。 でも何より目を引いたのは、地上から15メートルくらいのところを張り巡らされている白いパイプ。かなり広い範囲に渡っ てパイプが走っている。こんなメガ規模な空中の構造体は見た事がないので、どこぞの未来都市かと思った。本当にびっく りした。しかもこのパイプ以外はほとんどなにも構造物が建ってないのでやたら目立つ。これはどうやら、かさ上げ用の土 を山から運ぶためのパイプラインらしい。ダンプカーで土を運ぶのではなく、山から低地までパイプで繋いでしまってどん どん土を運んでいるみたい。とんでもないことを考えるなあ。頭の中で考えた事を、現実に寄せる段階を踏まないでそのま ま実現しようとしているような、なんとなくバベルの塔っぽい滑稽さがある。

奇麗な花畑のそばを通りかかった。そこで畑作業をしていたおばちゃんに「ご苦労様だこと」と声をかけられた。 そのままプレハブの事務所っぽいところに案内されて、たまたまお昼時だったのでそこでお昼ご飯をごちそうになる。震災 後こっちの方に引っ越して制作活動を続けてる友達二人の名前を出したら
「おー、あの二人の友達か。じゃあ息子同然のように扱わざるを得ないな」
ということになり、今夜はその事務所にいた男 の人の家に泊まることに。家の絵を見せたら
「ぜひ描いてもらいたい家がある」
と言って、すこし車で案内してもらうことに。もう一人の男性と合流して3人で車に乗って高田を走った。誰が誰とどうい うつながりなのかまったくわからないけど、人が親族関係や近所関係を超えたところでたくさんつながっているのはわか る。車の中で彼らはバスガイドのような口ぶりで津波の被害跡地を解説してくれた
「右に見えますのが、高田で唯一あった野球場のスタンドライトです。買ってから一回も使わないうちに津波で流されてし まいました」「ここらにも家があったんですよ~」
みたいな感じ。これは強さだなあと思った。とても親切に案内してくれた。海沿いを通りかかった時に 「壊れた堤防はこれからどうなるんですか?」と聞いてみたら
2人が同時に
「はい。12.5メートル」
と答えた。ハモってた。こうやって外から来た人によく聞かれるのだろうなあ。
「だから、今見えている景色は堤防ができたら全然見えなくなります」
とも言ってた。 しばらく走って、丘の上のほうにある大きな家に着いた。なんかよく事態が飲み込めないうちに僕はそのいえの絵を描くこ とになった。すごい立派な家だったけれど。 夕方また車で迎えにきてもらって、その男の人の家にいく。そこで久しぶりにテレビをみた。そういえばワールドカップや ってるのだな。

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昨夜「さっき言ってた家ってあれ?」ていう声が遠くから聞こえてきて、ドキドキしながら横になった。悪い事はしてないのだけどひそひそ話されると緊 張する。まだまだ神経が細いな。
気仙沼の方では豪雨だったらしいけれど、ここ本吉では全く降らなかった。20キロくらいしか離れてないのに。 あさ7時ごろ目が覚めた。午前中に近所で絵を描いていたら、知らない女性が
「もしかして噂の、イエの村上さんですか?」
と話しかけてきた。ついに家を被ってないときにも声をかけられた。なんでわかったんだ。そんなに浮いて見えるのかな。 昨日家が少し壊されたことも知っていた。話がひろがるのがはやい。また別のときに小さな子供が
「もしかして村上さんかなあ?」
とすこし遠くからわざとらしく声を出してこっちを見ていた。無視しちゃったけど。
11時頃に出発。気仙沼の方を目指す。歩き始めてすぐに昨日路上で出会った人から電話がきた。昨日歩いていたら突然道路の向こう側から山から帰ってきたよう な格好をしたおばあちゃんが
「ご苦労なこと!この先で休まん!」
みたいに声をかけてきてくれて、コンビニで買ったばかりらしい冷やし中華を僕に差し 出してくれた。自分が食べるために買い、ふたを開けて割り箸を割ったところで僕が歩いてるのを発見したらしく、あとは食べ始めるだけという状態の冷やし中華 をプレゼントしてくれたのだろう。いま手に持っているものを反射的に渡してくれたのだ。良いな。 道ばたの木陰の下に入ってそのおばあちゃんと娘さんと3人で、僕は冷やし中華を食べながら、おばあちゃんはパンを食べながら話をした。そのおばあちゃんは気 仙沼の仮設住宅で暮らしている。孫が14人いて、あんたも孫みたいなもんだ。と笑って話してくれた。一緒にいた娘さんのお姉さんが、これから僕が行く道沿い に住んでるから連絡してみると言ってくれていた。新聞記者も呼んでくれた。

歩きながら「これは家じゃなくて大きな傘みたいなもんだ」と考えてみる。雨とか道ばたの雑草から体を守ってくれる様子が傘みたいだと思った。ていうか家って 大きな傘のことじゃないかって考えてみると、基礎っていうものが家の機能からいかに浮いてるかがわかる。

夕方、例のお姉様の家に到着。人間が5人、犬が1匹、鶏が2羽、インコが1羽、あとたくさんのバイクがある賑やかな家だった。みんなで外でバーベキューした。楽しい。気仙沼はホルモ ンが美味しい事で有名らしい。本当においしかった。
「雨が降るかもしれないから、ここ使っていいよ」と、広い物置になってるスペースを貸してくれた。僕の家が誰かに盗られたりしないようにと、寝る前に3台の 車を動かしてガードしてくれた。

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昨日泊まらせてもらったところは敷地内がまだ工事中で、朝から何人かの職人さんが忙しそうにして いる。僕には聞き取れない方言(というか訛なのかな)が大声で現場に飛び交っている。笑っちゃう くらい聞き取れない。良いな。
日記を書いたり絵を描いたりして11時半頃に出発。気仙沼市の本吉 というところをとりあえず目指して歩く。このあたりからもうリアス式海岸が始まっていて、たいて い岬のほうではなくて湾んになっているところに町がある。岬をひとつ超えるのがだいたい20キロくらいで、1日で歩くにはちょうど良い距離。ちょうど良い距離なんだけど、歩道が無いところが何ヶ所もある。歩道は突然終わる。「歩道ここまで」みたいな標識など一切ない。もう何度思ったかわか らないけど、なんで歩道がないところがあるのだ。歩道が無いから車道を歩くしかないじゃないか。 そして車道を歩くと、時々ぶっきらぼうなトラックとかダンプとかがすぐそばを猛スピードで通り越 していって、突風と砂煙を浴びせかけてくる。歩道が無いことが腹立たしくて頭が変になりそうにな る。考えてみたら道路には「~キロ以下で走ってはいけません」って言う制限はないな。ないのにみ んななるべく速く走ろうとしている。遅いと嫌がられる。必要なのは速さ、速さだけが正義みたいな 走り方しやがって。腹が立つ。こんなところ歩いている方が悪いと言われたらそうなのかもしれない けど、歩くことによって車の異常なスピードがよくわかる。
そういえば今日ひとつ発見した。どうや ら「歩道があるかないか」と「携帯電話の電波が良いか悪いか」は比例する。

いつのまにか気仙沼市に入ったらしい。気仙沼に入ったからといってなにか突然風景が変わるわけで も道路の状態が変わるわけでもない。そこにずっと暮らしていたらそういう行政区分は大切なんだろ うけどこの生活にはほとんど関係ないな。曜日感覚もない。洗車している人が多かったら休日なのだ なあと思うくらいで、自分自身にはほとんど関係ない。大事なのは、空はあとどれくらいで暗くなる のか、風は強いか、敷地は見つかっているか、そこは電源が使えるか、シャワーかお風呂に入れそう なところはあるか、スーパーかコンビニか自動販売機が近くにあるかとか、そういう事ばっかり。
5時頃に本吉に着く。「はまなすの館」というところの敷地なら多分寝られるという情報を歩いてる 途中に教えてもらっていたのでそこに行って交渉したらすんなりOKしてくれた。過去に震災ボラン ティアを名乗る人が1ヶ月くらいここにテントを張っていたらしい。 敷地が決まってほっとしていたら子供を連れた女性が寄ってきて、僕にクレヨンとスケッチブックを 差し出して
「絵描きさんなんでしょ、何か描いてよ」
と突然言われた。「は?」と思った。絵描きをなんだと思ってるんだ。なんでそんな誰ともしらない 人に絵を描いてプレゼントしなくちゃいけないんだと思いつつ、なんか断りきれずに適当に描いて渡 した。こんな人もいるのだなあ。
でもその人はその後、そのぶっきらぼうな態度はそのままに、差し入れを持ってきてくれたり、近く にある体育館のシャワーを使わせるように交渉してくれたりした。ああこの人は嫌いじゃないなあと 思った。
「はまなすの館」に着いて家を置いた直後はいろんな人(主に子連れ。家を一部壊された。)が寄っ てきてああだこうだいって凄い凄いと言ってくれたけど、そうやって言うだけ言うとみんな帰ってい った。でもこの人は違った。スケッチブックを突然渡されたときはびっくりしたけど、結果的にその 人が一番深く関係を持とうとしてくれたのだ。良いな。
その人が絵を描いて渡したあと、フライドポテトと食パンを持って再び現れた。
「これ差し入れ」
と言ったすぐあとに
「絵、もうすこしかわいく描いてよ。あれもかわいいけど、もう1枚(ちゃんと)描いて」
と言ってきた。うわーこの人やるなあと思った。
そういえばここ最近、食べ物飲み物の差し入れをたくさんもらうようになった。東北に入ってからほ とんど毎日誰かに何かをもらっている。いまペットボトルの飲み物が3本、菓子パンが2個、食パン が1斤ある。さっきまでこれに加えておにぎりが2個あったけどそれは食べた。消費するのに忙し い。東北すごいな。

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今日久々に人からたばこをもらって思ったのは、喫煙も労働のひとつだということ。僕は去年までタバコを自分で買って吸っていたのだけど、ある日 嫌になってやめた。お金がかかるというのも理由のひとつだけど、あるとき突然自分の体が日本たばこ産業によってコントロールされている感じがし て「コントロールされてたまるか」と思った。タバコを吸い始めたらそれが日課になる。そうすると毎日毎日自分のお金をたばこ業界に支払ってその 煙を享受することになる。タバコ産業からしたら、喫煙者はとても勤勉な労働者になる。ちゃんと煙を毎日吸ってお金を稼いでくれるのだ。僕は尊敬 できない人の下で働くのは嫌だからバイトが嫌いなのだけど(だから3月までバイトしてたのだけど)、考えてみればタバコを吸う事も人の下で働く ことと同じようなもんじゃないか。だからやめられたのだな。タバコ産業に辞表を出すみたいなものだ。あぶないあぶない。

僕が小さいころもそうだったけど、4世帯もいるとそのなかに小さな社会ができて人間関係がすこし複雑になる。家族とはいつも一緒にいるのが基本 で、そうするとそのなかでうまくやっていかなくちゃいけないから、そういう環境で育った人は人間関係に対して感覚が鋭くなると思う。日々家で過 ごすことがすなわち社会勉強のひとつになってしまう、というか。というようなことを、久々に4世帯家族の一家と過ごして思った。今日は11時頃 にそこを出発。南三陸町に向かう。20キロくらいか。あるいている途中、登米市の一家がわざわざ交通安全のお守りを買って車で届けにきてくれ た。嬉しい。また会いたいな。次会うとしたら来年か。小学生だった長女も中学生になっているはず。それまで生きのびないと。
南三陸町もまた津波の被害が凄まじいところで、波にごっそりさらわれた海沿いの町は今では瓦礫が撤去されて、まっさらで見晴らしがやたら良くな っている。あちこちで重機が動いていた。海が全然見えないところに「ここより過去の津波浸水地域」っていう標識が掲げられていて、当時の町の人 たちの混乱が目に浮かぶようだった。歩いて移動する人が少ないためか、歩道はぼこぼこのままだった。でも人はとってもやさしくて、工事のための 交通整理のおじちゃんたちはみんな笑って声をかけてくれて、車道を横切るのを手伝ってくれたりした。ここでも警察に声をかけられて身分証を求め られたけど、その警官は「あなたのことは署に言っておくから。こんな人がいても怪しい人間じゃないって」と言ってくれた。
「南三陸町は小さい町なんだけど、最近立て続けに死亡事故が2件あったからくれぐれも車には気をつけて」
とも言ってた。
南三陸や気仙沼で事業を展開してる、ある会社の人に声をかけられて事情を説明したら。 「うちが前使っていたプレハブの小屋がまだ残ってるからそこでよかったら泊まっていいよ」 と言ってくれた。
行って詳しく話を聞いてみたら、どうやら震災で会社の事務所がだめになり、山の上の敷地に仮設のプレハブ小屋を建てて事務所に していたけど、そのそばに新しく事務所を建てたからいまプレハブの方は解体途中で、電気は通ってないけど和室の部屋なんかが残ってるからそこに 寝ていいとのこと。ちょうど雷が聞こえて雨が降り始めたところだった。嬉しい。その会社の何人かの人は2、3日前から家が歩いてるのを各地で目 撃していたらしい。そういえばツイッターで「歩く家がいるらしいよ」という写真付きの呟きを見つけた。「家を被って歩いている人がいるらしい」 ではなく「歩く家がいるらしい」っていう発想になっちゃうのは、これはゆるキャラに毒されすぎなんじゃないか。

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どうも「世間のしがらみから解放されたい人」みたいに見られがち。この前の授業でもそんな感想がいくつかあった。「自由になりたい 人」みたいな。そうじゃない。ていうかこの生活に自由はない。強く縛られている。家から目を離せないから行動が制限されるしずっと同じところには居られないから、歩かなくちゃいけないし絵も書かなくちゃい けない。この社会から逃げたいわけではない。悪く言いたいわけでもない。世界をまわしてるこの大きな大きな装置を悪いなんて簡単に言 えない。縄文時代に戻りたいとか、荒野に行って一人で狩猟採集しながら暮らしたいとか、田舎にこもって畑でもやりながら自給自足生活 したいとか、全然まったく思わない。お酒をのみながら人と話したりするのが好きだし映画館とか劇場とかライブハウスとかクラブとか美 術館が好きだしお金も好きだ。そのためにこの装置は必要なものだ。敵にまわそうなんて思わない。選挙にも行く。「自由」対「社会」み たいな二元論で考えがちなのかな。何が誰が悪いって簡単に言えないから難しいのだ。ライムスターだって歌ってる。誰もがお互い指差し てばっかりだって。あらゆる事は他のあらゆる事と関係していて、自分もそのまっただ中にいるのだ。問題を自分が引き受けないといけな いのに。人に指した指は自分にはね返ってくる世界になってるのに。家において基礎と上の箱の部分は分けて考えるべきだってことに昨日 気がついた。そう考えると現代の人にとって家がどういうものなのかとても見えやすくなる。

今日こそは登米市に向かう。石巻の人は登米のことを「とても良いところ」という。そういえば水戸の人は常陸太田市のことを「とても良 いところ」って言ってた。良いところいっぱいあるな。
石巻から北の内陸のほうに20キロくらい進むと登米市に入る。言われてた通り、 すごく景色の良いところ。道路の左側を見ると山と湖と川がダイナミックに関係しあいながらずっと続いている。そしてうっすら霧がかっ ていて神秘的。
途中にあったデイサービスセンターの職員さんに声をかけられて、1時間半くらいそこでおばあちゃんおじいちゃんたちと 過ごした。職員さんがあるおばあちゃんに「東京から来たんだってー。すごいね」と言ったらそのおばあちゃんは「かわいそうだ。かわい そうだからあんまりかまうな」みたいなことを言ってた。そういう見方もある。そういう見方もあるな。デイサービスセンターの独特の時 間の流れ方を久々に目の当たりにした。どんな時間でもみんなでつぶせば怖くない。

先日道路で会った登米市在住のご家族の家に着いたのが19時ごろ。僕が小さいころの家族構成とほとんど同じ4世帯同居のにぎやかなお うちだった。わんこもいる。わんこも含めた皆さんとても暖かく歓迎してくれた。まだほとんど初対面なのに。すごい。奥さんとおば あちゃんの「どうぞどうぞ」っていうせりふの言い方が似ている。良いな。だんなさんが仕事帰りに石巻のお酒を買ってきてくれてみんな で飲むなど。旦那さんのお父さまは油絵をやる人だった。夜はその家の離れの一室で寝かせてもらう。

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このあいだ石巻に向けてバイパスを歩いているとき、車が一台近くにとまり家族連れが降りてきて

「何やってるんですか」

と声をかけてきた。説明するとお父さんが「すげえ」と感動して、登米市にあるそのご家族の家の敷地に僕の家を置かせてもらうことに。今日石巻を出てそこに行く予定が、いろいろ人と会ったり紹介してもらったりしているうちに昼過ぎになってしまい、もう出発するには遅すぎる時間になってしまった。暗くなってから山道を歩くのはこわい。なので今日も石巻に滞在することに。こんなこともある。

今日石巻新聞の取材をうけながら「『家』において、基礎部分と上の箱の部分は分けて考えるべきだ」という話が口をついてでてきた。そうかそうだったのかと、話しながら感激していた。

家の基礎とその上の箱は別々のものとして考えるべきなのだ。僕は上の箱だけ持ち歩いているから敷地の交渉が必要になっている。本来人が生きるための家の機能として必要なのは屋根と壁だけなのだ。基礎なんてうつ必要ない。じゃあなんで基礎をうつのかというと、この社会のシステムのためだ。基礎をうって家を固定することによって誰がどこに住んでいるのかが整理しやすくなる。より円滑に経済をまわして行政を機能させるために家は基礎によって地面に固定されていなければいけない。先日のトレーラーハウスに住んでいる人の話によると、トレーラーハウスでは住民票が普通とれないらしい。動かせるから。家を動かされちゃ困るから車輪がついていたら住民票登録できない。そして住民票がとれないと、保険にも入れないし仕事もできない。

さらにその人は、仮設住宅に引っ越したとき「住民票はうつさないでいいです」と役所に言われたらしい。なぜなら家の基礎はまだ残っているからだ。津波に上の箱が流されても、基礎が残っていたらそこに住民票があるということになる。基礎が残ってれば住民票はそこにある。これは不思議と自然なことのように思える。そうだったのだ。

それに気がついた上で、今日石巻で津波の被害がもっとも酷かった一帯に行ってきた。だいぶ奇麗になっているけれど、基礎や塀が残っている家はまだまだある。一度これを見てしまったら、これを絵に描かずに町の方にいって普通に建ってる家だけを描く気にはなれない。それはとても不自然なことのように思える。だからそこで絵を一枚書いた。基礎しか残ってない家。描いていて突然涙がにじんできた時間があった。基礎。この基礎。愛と憎しみを込めて「基礎。基礎。」とつぶやきながら絵を描いた。