1229 朝から昼間にかけて雨。午後は止んでた。寒い

1230 雲ひとつない位の快晴。ぐっと暖かくなった

1231 今日も快晴だし、全然寒くない。春みたい

高校の同級生で量子力学とか研究してる友達がいて、彼が
「この世界は32次元であるという説と33次元説があって、僕は32次元派」
というような話をしていて、全然意味がわからなかったという話を、彼と会った友達から聞いて大笑いした。
そのとき撮った彼の写真も見せてもらった んだけど、彼は山から下りてきた仙人みたいだった。

12月26日
東京は快晴。日差しのでているところなら耐えられるけど、日陰は寒い。
昨晩、東京駅の高層ビル群を眺めていたらなんだか怒りが底なしに湧いてきた。見れば見るほど腹が 立った。それは武者震いのようなものにも似ていた。

12月27日
今日も快晴。昨日より気温は低いかも。 近代美術館の高松次郎展を観にいって、最初にあった、鉄板の裏にランプが置いてある作品をみて、 突然ぐっと涙がでてきそうになった。他にも「この七つの文字」とか、本の見開きの全ての行に取り 消し線をいれるドローイングとか最高。高松次郎の仕事を年代順に3つに分けて、壁とベンチでやさ しくしきりながら展示していて、最後に全体を俯瞰するステージが設けられてて「これは作家として は嬉しい展覧会だろうなあ」と思った。

12月28日 快晴。風が冷たい。日差しにいるとすこし暖かくて気持ち良い。

今日も快晴で過ごしやすい気候。

遠藤一郎さんが突然現れた。「いまこのへんにいるから来た」みたいな感じで現れた。いっしょにカフェでモーニングしながら話した。彼もずっと移動生活をしているので、いろいろと話が合って面白い。おすすめの寝袋とかインナーとか教えてもらった。
「こっちの日々に流れがあるように、向こうの日々にも流れがあって、そのたったひとつの交差点で交わっているだけだから、その一点だけをみて相手の事を決めつけたりしないほうがいい。ただぼーっとみてるくらいの方が楽だし。」
っていうようなことを言われて、なんだかとても楽になった。僕と一郎さんが、こうやってたまたま時間と場所が一致してはち会って、ご飯を一緒に食べる、みたいなのは、その一点の交差点がとてもわかりやすいけど、考えてみれば生きてる人と生きてる人が出会うって言うのは全部そういうことなので、そのたった1点での交流がどうとかっていうのは気にしすぎないほうがいいんだな。それこそ南方曼荼羅みたいなもんだと思えばいい。生きるのがずっと楽になる。
こうやって日記を書くということも、日々の出来事を気にしすぎないようにするための防衛手段みたいなもんだな。日々出会う事を頭に全てとどめておいたら、正気でいられる自信がない。日記に書く事によって、いまこの瞬間が「1点の交差点」であることを確認できる。遭遇した出来事を消化して受け流す事ができる。生存戦略みたいなもの。

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今日飛行機で東京に帰省するので家をフンドーキンマンションの中にいれた。

薄い雲がかかっていて、昨日より少し寒い。昨日the bridgeから向かいのフンドーキンマンションに家を動かした。20メートルくらい。ブリッジは夜0時閉店で、遅くまでわいわいやってるし人通りもあるから
「自分の家に出入りするのがやりづらいなあ」
って思ってたんだけど
「そうだ動かせばいいんじゃないか。僕の家は動かせるんだし」
っていう事に昨日気がついて動かした。

最近になってますます、なにがなんだか全然わからない。この世界の何が問題なのか勉強すればするほど、なにがなんだか、なにが本当なのかなにが良いのかさっぱりわからなくて発狂しそうになって勉強をやめて、制作とお酒と睡眠と音楽で中和する。"音楽"しか信用できないっていう状態になるのも時間の問題な気がする。自分の目でみたことしか信用できないし、もう本当にわけがわからないので、やっぱり歩くしかない。地球が丸いってのも疑わしい。
そもそもいま自分が正気なのかも怪しい。考えぬいて「わかった」と腑に落ちたその瞬間、たぶん僕は発狂している。なにがなんだかさっぱりわからんていう状態がぎりぎりセーフな気がする。発狂直前の正気が、最も冴えている状態な気がするって前も書いた気がする。ニーチェは発狂して精神病院で死んだらしい。
1つだけ言えるのは、何か自分と異なった見解の相手に出会ったとき、それを「キチガイ」とか言って「キチガイの言う事だから聞くだけむだ」とか言って耳を塞ぐというのだけはやってはいけない気がする。右も左も関係なく、有名無名も関係なく、あらゆる人を自分の心の中に飼って、分裂症のような状態になって、それで「こうとしか思えない」っていう道が、ゆっくりとかろうじて開かれていく気がする。

今日も快晴。暖かいくらいの気候。

昨日寿司屋で話したことをずっと考えている。 僕は自分の活動について「ああ、なるほどそういうことね」っていうふうに"理解"されてしまうのが 嫌なので、家を持って道路を歩いてる時に「~してるんですか?」って話しかけられたら「いや、そ うじゃないんです」「そういう事でもないんです」「そんな簡単なことじゃないんです。それじゃあ そろそろ失礼します」っていうふうにやりとりを終わらせたいと常々思っている。
相手が「なんかモヤモヤするなあ」っていう気持ちのまま別れられたら良いと思っているんだけど、なかなか難しい。
適当な答えをして、相手に「なるほど」っていうふうに思わせてその場をやり過ごすみたいな戦略を簡単にとってしまう。相手の空気を乱さないようにしてしまう。
でも「腑に落ちる」っていうことはとても危ない事で、それは自分の想像力によって限定されている 世界に、相手を押し込めてしまうっていうことになる。そんなの絶対にどこかに誤解がないとできな い。絶対にどこかで相手を誤解をしないと「あ、なるほど」っていうふうにはならないはずで、だか ら「なるほど」って思ってしまうのは、相手に対して不誠実なことなんじゃないかと思う。 「わからないなあ」っていう気持ちのまま考えつづけるのが一番いいんだけど、それには体力がいる ので、僕たちはすぐに「なるほど」って腑に落とそうとする。テレビや新聞で自分のことが記事にさ れた時に生じる違和感はそれなんだな。あれはマスにむかって発信するものだから「わかりやすさが正義」みたいな体質があって、「視聴者が「なるほど」って思えないとマズい」みたいな自己規制が かかって編集がなされる。だから今のテレビとか新聞って「取材対象をどこかで誤解する」ことによって「発信が可能になる」っていう体質なんだと思う。

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散歩してる時にみつけた大分川の釣り人

快晴。昨日より少し暖かい。

昨年のフンドーキンマンションでの展示で知り合ったディレクターのれあさんに、寿司屋に連れてってもらって、4時間くらい震災のこととかこの移動生活のこととかテレビの未来のこととか話し た。
テレビは戦後の復興期に、大きなテーマというか「共通の幸せな未来像」みたいなのを掲げて視聴者を導いて、経済成長を後押しするために生まれてきて、そんな幻想がとっくに崩壊した今でも、未だ にその体質が抜けてないのでなんかおかしなことになってるんじゃないかって思っている。テレビの人に会ったら
「複数人の人をまとめて語ると必ず誤解とか差別とか無用な争いが生まれる。二人以上の人を一緒に語った時点でアウト」
っていうのをとにかく伝えたいと思っていて、話してみたらやっぱりそのへんの問題意識は持ってい て、それを聞けて嬉しかった。
最近特に、この国はいったいどうなってしまっていて、今後どうなっていくのか、もうさっぱりわからない気持ちがしていて、その気持ちもすこし共有できて嬉しい。もう何がなんだかさっぱりわからないから、とにかく歩くしかないと改めて確信できたし、と にかくすこしでも良くなるように頑張りながら生きていくしかないし、それはどんな仕事をしてても 同じだ。

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大分駅の裏側

油断するとすぐに、自分の身内から学ぼうとすることを忘れる。自分が学ぶべき事は、本やテレビやインターネットや有名人のセリフの中にだけあって、友達や家族からは学ばなくなる。なにかを考える時に、引用する時に、なぜか自分に近しい身内を飛ばして、どっか遠くから引っ張ってこようとばかりする。これは、二次情報三次情報ばかりが溢れて、それだけに価値があるかのように錯覚してしまうこの社会の刷り込みだと思う。危ないことだと思う。人と話す時、いつも授業を受けるような気持ちで向き合う気持ちを忘れないようにしたいって思う。

今日は快晴。昨日より少し寒い。夜、the bridgeでクリスマスパーティー&忘年会があったので参加してみた。クリスマスと忘年会を一緒にやってしまう我々のセンス。キリスト教圏の国にもこういうのあるのかな。なんか5人組のゴスペルグループが賛美歌とかを歌うのを聞きながらお酒を飲みまくるっていう会で、それなりに楽しんでたけど、途中で一気に冷めて周りを冷ややかに見てしまう時間もあったりした。なるべく難しいことを考えず、空気を壊さないように、無自覚で無思想に、日々を楽しむことに人生のすべてを注ぎこみ、クリスマスとかバレンタインとかをやりまくる僕たち。「うわあなんも考えないで楽しんでる」ってめちゃひいた目で周りをみてた時間があったけど、人に話しかけられて、僕はまたその中に戻っていった。

朝起きたら雨が降っていた。でもそんなに寒くない。雨さえ気にしなければ過ごしやすい。別府駅で慌てて電車に乗り込んだら愛用の手ぬぐいをベンチの上に忘れた。確かステンドグラスを作ってる秋田県のおじちゃんの家でもらったやつ。別府でなくすことになるなんて。

今日は週末で、人でも足りていないということで、なりゆきで8時間くらいthe bridgeでバイトをしてた。掃除をしたり皿を洗ったりおしぼりを整えたりした。人手が全然足りてなくて笑ってしまった。

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これを

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こうしたり

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これを

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こうしたり

久々にやった時給バイトは、やっぱり苦手だった。バイトをやる前の世界とやった後の世界が何も変わっていないことが腹立たしくなる。時給のバイトはやっぱり良くない。それは時間の切り売りで、死ぬまでの時間つぶしで、その場しのぎのお金を稼ぐためにやる。やる前と後ではお金がちょっと増えるだけで、他になにも起こらない。堪え難い。時給っていう考え方は、普通に倫理的に問題があるような気がする。そんで面白いことに、バイトをすると音楽の好みが変わってくる。ダウナーなやつが聞きたくなる。

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快晴。しかも昨日ほど寒くない。寒波が去ってくれたみたい。

昨日カモシカ書店にいるときに、例の児玉先生から電話があって
「明日池辺さんがくるからな!村上君もきなさい!宴会だから。誰か連れてきなさい!」
みたいな、相変わらずのハイテンションだったので「行くかー」と思ってたんだけど、池辺さんに聞いてみたら。それは宴会ではなくて、児玉先生の奥さんの髪の毛をヘナで染めに行くという用事があるだけで
「誰かが家に来るとなると、いつも児玉先生は他にも大勢呼んで、宴会みたいになるのよー」
って言ってた。

そこに全然関係ない友達を連れていったら面白いんじゃないかと思いたって、大分在住の作家友達の小野愛ちゃんを連れて行ってみたら、他にも人がいて、その人がやたらたくさん料理を持ってきてたのが不思議。まるで僕たちが来るのを知ってたみたいだ。そのあと喫茶店に連れていってもらって解散した。夜は作家仲間の勝さんに会いに別府に遊びにいったら、たまたま何かの飲み会をやってて、そこにアーティストの淺井裕介さんがいたのでちょっとお話ししたり。1日中刺激がたくさんあって、とても疲れたので、温泉に行って、そのまま清島アパートの勝さんの部屋に泊まらせてもらった。

相変わらず寒いけど快晴。午前中は市内を散歩した。

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ミニチュアみたいな可愛い建物が並んでる通りがあったり、大きな木があったりした。奇麗な道路の上に新しい建物ばっかりが並んでるようなところにそれらが突然現れたのでびっくりした。こういうものがないと、その土地がながい歴史をちゃんと持ってるっていうことを忘れてしまう。奇麗な建物ばっかりならんでたら、その土地がつくられてまだ間もないかのような錯覚をしてしまうなあと思った。どんな土地にだって、ながい歴史があるのだ。

お昼はブリッジにずっといて、夕方から夜まではカモシカ書店にいた。夜に人と飲んだ。
自分の職場の中だけで日常が完結しているような人は、その職場の中で敵をつくってしまう。せまい世界の中で簡単にいがみあったりしちゃう。「インデペンデンスデイ」で、地球が宇宙人から攻め込まれた途端に、あらゆる国が争いをやめて団結し、宇宙人に立ち向かうのと同じ。
漫画家の水木しげるの事務所に客が来たとき、水木先生が「こちらのお方は?」とスタッフに聞いて、スタッフが「スキャンをお願いしてる製版会社の方で…」って必死に説明してたら
「いいんですよ。人間なら」
と言って笑顔で会釈したっていうエピソードがすごく好きで、夏に僕が自分の家で寝る時に、中に虫が入りまくってきて、「虫さん達のところにお邪魔します」っていう気持ちにならないと寝れたもんじゃなかった。このとき僕は出会う相手の事を「人か虫か」で区別しているような感じだった。だから水木先生の「人か妖怪か」みたいな感覚はすっごくわかる。

大分在住の珈琲娘のさくらに連れられて「カモシカ書店」に来た。

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古本と新書を置いてある本屋で喫茶スペースもある、めちゃ居心地の良い場所。オーナーが僕のことを知っていた。そこで手に取った荒川修作と藤井博巳の対談集「生命の建築」を読んだメモとして書いておく。

荒川は「空間」のことを「私たちの目の前や後ろにあり、上下左右がある"透明なフィールド"」「(壁や天井で囲まれていることによって)すでに与えられたもの」とは考えていない。それはいずれ自然科学が進めば、たまたま透明だっただけの、ただの物質に還元される。彼にとって空間とは、身体の行為によって生まれたり殺されたりするものらしい。
そして彼にとって身体とは「変える事ができるフレーム」らしい。
「ただし、これだけめちゃくちゃな状態になってしまっているこの世界では、身体のフレームを変えることはできないので、身体の使い方から変えていく。そしていずれ身体のフレームを変えていけばいい」
らしい。また日本人は古来から「おばけのようにうつろい住む」民族なので、暮らしは「仮のもの」であり住宅は「どっちみちすぐ消えていく、仮設のもの」であるとする思想が身に染み付いている。だから「建築する」ことや「住宅を構築する」ということが何故必要なのかわからないっていうのが多くの日本人の本音だと思う。うつろい住む民族なので、体系化された思想が育たない。むしろわざと育てさせないようにしている。なのでこれからは「住む」ということを徹底的に考え直さないといけない、と彼は考えている。
そして彼によれば、人類が誤解している最も大きなことは「時間と空間」らしい。空間はわかったけど、時間も同じように考えられるとしたら?時間も身体の行為によって「生まれたり殺されたりする」ものだとしたら?こんな面白いことない。僕自身がいま「過去も未来も、近いも遠いもない。全てが同じ箱の中にごちゃっと入れられている、なにがなんだかさっぱりわからない状態」になっているのは、全てここから説明がつくのでは。様々な情報がこのからだに記憶されているような感覚。"出来事"や"場"をからだの中に取り込んでいっているような感覚に説明がつくのでは。