熊本交通センターから高速バスにのって2時間で福岡の天神に着いて、rethink booksという本屋さんでぶらぶら立ち読みをして、地下鉄で福岡空港に向かった。福岡は空港が市街地から近くて良い。
福岡空港から関西国際空港に向かうJETSTARの飛行機を予約していて空港でチェックインしようとしたらなにやら会社のシステムがダウンしていて、自動チェックインができなくなっている。ウェブチェックインも「予定通りサーバーメンテナンスのために利用できない」ということでできない。それだけじゃなくて面白いのが、手動のチェックインカウンターにみんな並んでるんだけど、そのチェックイン処理もパソコンではできないらしく、何も印刷されていない紙の航空チケットにスタッフが手書きで「SATOSHI MURAKAMIサマ」「seat 19D」とかって書き込んで渡してくれた。レアな半券を手に入れた。
機内で「星を継ぐもの」を読みながら離陸を待ってたら僕のすこし後ろになんどもクルーを呼ぶ男性がいて
「この遅延はどういう理由によるものなんですか?会社側の・・システムが。なるほどなるほど。到着してから、まあ僕は帰るだけなんでいいんですけど。他の人で次の乗り継ぎとか、予定とか遅れた人に対して、会社側はどういう対応を・・・。なるほど、まず着いてからですね。わかりましたl」
「混乱してるなかこういうこというのは申し訳ないんですが、いまこの飛行機は飛べる状態なんですか?書類の作成に、時間がかかっている。なるほどなるほど」
「今トイレは使える状態なんですか?いいんですか?はいはい」
「いや僕もね、お客様を相手にする仕事をしているものですから。どういう状態なのかなと思いまして。混乱しますよねーこういう時。」
「いやなんか喉が渇いちゃってね。ちょっと飲み物をとっていいですか。ああ、アルコールしか持ち合わせが無くて、持ち込みのアルコールを飲むのはダメなんですよね。販売してる飲み物を買いたいんですが、現金ですか。ああJCBは使えない。現金で。はい。領収書というか、レシートもらえますか。簡単なのでいいので・・」
とかいろいろ大きな声で話している。機内はピリピリしてる。右隣の女性は誰かに電話して「もう30分以上座らされとる。超イライラするわー」と言っている。

離陸した。僕の左に座ってる人も、左斜め前の人も静かに待っていた。機内のピリピリした空気は一部の人たちがつくっていて、その一部の人でさらにタチの悪い人は、自分のピリピリを他人も感じていて、それを自分が代弁してやっていると思い込んでいる。
それにしても星を継ぐものが面白い展開になってきた。ミネルヴァという星が実は地球のことなんじゃないかという!

教科書で習うような歴史と、自分の個人史や家族の歴史のあいだが飛びすぎちゃっててつながらない。そこにはつながりがあるのに意識に上らない。なんでいままで間を埋めようとしたことがなかったのか。その間を埋めるにはひいじいちゃんのことを調べ始める必要がある。「愚か者は祖父までで歴史が止まっている」っていうのは確かニーチェの言葉だった。

目先の細々としたものにとらわれてはいけない。良いものを作るには必要だったのだと思えないと。

点線は、1次元から2次元へのイメージ。縫い目は、2次元から3次元なのだけど、2次元と3次元を行き来するイメージ。軌跡が現れたり消えたりするイメージ。表と裏を行き来する。途絶えたようでいて実は続いているイメージ。一度途絶えないと「縫い目」にならない。

右足のつま先の裏が痛い。昨日たくさん歩いたからなのか、なにか別の原因なのかわからないけど。内出血してるみたいな痛み。こういうのは初めてだ。昨日は久しぶりに長距離歩いた。
昨日は天気はいいけど風が強い日だった。午前中はお寺をドローイングしていたけど風で集中が削がれて、ドローイングの線が乱れたと思う。適当になってた。でも後で見返してみるとそれが面白かったりもするから、とにかく描き残していくことが重要なんのだと思う。こうやって日記を残すことも。
おとといの夜は「お寺の離れで寝るといい」と言われて寝ようとしたのだけどなんだか全然寝付けなかった。物置の雰囲気とかがあまり馴染めなかったし、普通に「自分の家で寝たい」と思った。僕は自分の家を作り、それをここまで運んできているのに、その家を野外において自分がここで寝ているという状態も突然許せなくなって荷物をまとめて野外(お寺の駐輪場)の自分の家に行ってそこで横になった。とっても落ち着いてすぐに眠くなった。みんなこの家で寝ることが辛いことだと思い込みがちだ。優しい人たちだ。
朝、目がさめたらすぐに住職さんがやってきて「朝ご飯準備できたよ」と言った。朝ごはんをお寺の中の客間のようなところでいただいた。お寺は新しく建て替えたばかりらしく、とっても綺麗だった。住職さんはとなりで新聞を読んでた。話を聞くとここは室町時代後期から続いているらしい。ご飯を食べ終わってドロイーングをしたあと、寺を11時過ぎに出発した。玉名市から熊本市に向けて国道3号線を通る山側のルート。25キロくらい。福岡に入ってからずっと思ってたけど九州の山はなだらかで歩きやすい。このあたりも筑後平野なのか。途中に大きな街はないけど町はあり、町と町の間にも途切れずに家があり、田んぼが広大に広がっていて遠くの方になだらかな山がある。そういう景色が続いている。
だいぶ暗くなってきた6時前くらいに熊本の友達の池澤さんの家の近くにある長崎次郎書店という本屋さんに着いた。池澤さんに電話したらたまたまお仕事がお休みで迎えに出てきてくれた。お腹が空いていたので本屋さんに頼んで敷地内にちょっとのあいだ家を置かせてもらおうと思ったけど店員さんと話してみたら色々と面倒そうだったのでそのまま解体して池澤さんの家に入れることに。屋根と壁を一枚はずしたら家をドアから入れることができた。一旦家を置いてご飯を食べに居酒屋に。月曜日なのにお店はとっても混んでいた。やっぱり熊本人は外で人と飲んでしゃべるのが好きなんだ。

話したこと。
僕は最近「家を動かしに家に戻る」という状態が続いている。一年目ほど、家につきっきりで一年中移動しているわけじゃない。特に今年はとても切れ切れにこの”移動”をやっている。今年は瀬戸内国際芸術祭のために小豆島に2ヶ月くらい滞在したところから始まり、そのまま島に家を預けて東京で展示に参加したり、山口県の防府で家を預けて長野で展示をしてスウェーデンに行って滞在制作をしたり、福岡県の久留米に預けて小豆島に行ったり札幌に行ったりし、そんで熊本について、これから熊本に家をしばらく預かってもらおうとしている。途切れながら続いてる。でも3日前に筑後で出会った人たちや一昨日出会ったお寺の人たちや昨日出会った住職さんも、僕が途切れなくこれをやっていると自然に思っただろうし、僕自身もずっと継続している意識がある。家を動かしに戻るという状態がなんなのかよくわからないけど、この家を動かす日々は何か考えを深めたりアイデアを出すのにとても大事な時間になってる。松本の家で過ごすのとは明らかに違うスイッチが入ってるし、どこかで滞在制作してる時とも違う。池澤さんは、この移動をずっとぶっ続けでやってるのを見るのは多分辛い。今みたいな切れ切れの状態が面白いと思うと言ってた。
僕は布を縫う時のことを思い出した。糸が表から見えなくなり、裏側を通ってもう一度表側に来る。そういうイメージで続いている。表からは見えないが、裏で糸が繋がっているような感じ。断絶と継続が両立するような状態になっている。逆に断絶があるから継続できる。僕はこの土地に糸を塗っていくようなイメージでやればいいのだ。この地面の下に走っている断層のことも思いつつ。断ち切ることで連帯するというか、終わらせることで始めることができるというか。そういう意味での「断絶」は前向きで良いものだ。
そういう話をしたら、池澤さんが「ラインズ 線の文化史」という本を貸してくれた。これがとんでもない本で、これからますます面白くなりそう。

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「いいかな?」
と言って住職さんが普段着で入ってきた。アサヒスーパードライのロング缶を1本持っていた。
「ビール持ってきたけん。酒の趣味がなかったらごめんね。日本酒のほうがいいかな。ビールでいいか。テレビはその長いリモコンで観れるけんね。ビデオは、そのもうひとつのやつでみれるばってん。下の方にエロビデオが入ってるけんね。ここはただやけん(笑)。エアコンはその白いやつでつけられるけん。じゃあね。もう来ないからね。」

朝、4時半頃に一度目が覚めた。文明ングというタイトルはやめようと思った。すぐ寝て、今度は7時半頃に目がさめた。外を通る車のタイヤの音で、雨が降っていることがわかった。8時過ぎた頃に住職さんが「おはようございます」と訪ねてきて「朝ごはんよかったら。持ってきます。あまり期待しないでよトースト一枚とかそんなもんだから」と言う。断るのもアレなので(こういう時断るのが苦手だ。というか受け取らないと悪い気がする)「じゃあお願いします。ありがとうございます」と。僕は雨でもお寺を描くために一度外に出て写真をとってそれをパソコンに入れてその画面を見ながら絵を描きはじめた。しばらくしたら再び住職さんがトースト2枚と目玉焼きとウインナーとレタスふた切れとコーヒーが乗ったお盆を持って来た。住職さんはパソコンをみて
「パソコンも持ってるのか」
「はい。日記とか書いています」
「書きものもあるのか。出発する時は一声かけて。私も出かけるから」と言って去っていった。
11時前には絵が描き終わって、それを大牟田駅に同化してるファミリーマートでコピーしてメッセージを書いて、出発する準備を整えて挨拶をするために玄関のチャイムを押したら奥さんが出てきた。住職さんはもう出かけたらしい。奥さんにコピーしたドローイングをプレゼントして見送られながら出発。それからひたすらひたすら歩いて18キロくらい歩いたところで16時過ぎに玉名市の玉名駅近くに着いた。雨はいつの間にか止んでいた。
玉名駅近くで敷地を交渉しようと思って二つあったお寺に行ってみたけどチャイムを押す前に直感で「ここはやめよう」と思って二つともやめた。そこからさらに1.5キロくらい歩いたところにお寺が密集してる地域があったのでそこで敷地交渉を始めた。ひとつめに行った大きな神社は社務所で女性に「ちょっと宮司がいないのでなんともいえませんね。何時に帰ってくるかもわかりません。はい」と断られた。彼女は明らかに不審なものを見る目をしていた。二つめにいったお寺では住職さんが出てきたけど「うちは困りますよね。こういうことだったら、トイレがある公園とか。うちは困りますよ」と断られた。暗くなってきたなと思いつつ三つめに行ったお寺が子供の声もして賑やかだった。たくさん家族がいるみたい。チャイムを押したら女性が出てきて「今、住職が!ちょっと待ってください。中に入って待っててください」と言って家にいれてくれた。この時点でだいぶホッとしていたと思う。ちょっとしたら住職さんが出てきて一通り説明を聞いて「中でねてもええよ。そとでもかまわんけど」と言ってくれた。ほっとした。もうすこしで「玉名はだめだな」とか思うところだっけど思わずにすんでよかった。この住職さんがめちゃ親切な人で、僕に強く「中でねるのがいい」と勧めてくれた。「離れがあるからそこを使うといい。見るだけ見てみたら」と言うのでみせてもらった。そこは水道(ちょっとサビっぽいけど)もあるしトイレもある離れだった。断るのもアレなので(断るのが苦手だ)「ここで寝ます」と言った。
住職さんが「夕ご飯は・・」といいかけたので「晩御飯は向かいのラーメン屋(すぐ向かいにラーメン屋があった)で食べます。大丈夫です」と言った。
「そうか。ラーメン食べ。お風呂は、9時過ぎたぐらいだったらうちのお風呂いいよ。しばらくお風呂入ってないろ」
「いやあ、僕が緊張するからいいです。近くに銭湯ないですかねえ」
「あがったところにあるけどなあ。20分くらいかかるぞ」
「なんとかします」
とやりとり。住職さんが去り際に「ラーメン代やる」と千円札をくれた。「ありがとうございます」と受け取った。つくづく断るのが苦手だ。このプロジェクトに対する僕の認識と、現場で出会う多くの人がする認識が大きく違いすぎる。こうやってお寺で人から何かもらったりするのを続けると何か悪いことをしている気がしてくる。「旅」とか「経験のひとつ」という枠からどうしても出られない。期間を決めてやれば割り切れるかもしれないとも思う。昨日のマヤ暦のおじさんの話じゃないけど、節をつくるのは本当に大事かもしれない。

去り際に住職さんは
「風呂上がり何時か知らんが缶ビール持ってくるかもしれん。ここ冷蔵庫ないばってん。あとでまた顔だすけんね。」
と言い残していった。「ありがとうございます」としか返せなかった。僕はお寺を出て向かいのラーメン屋に入った。入って椅子に座ったらすぐにおばちゃんから「なんにしましょう」と聞かれたのでちょっと慌てて頭上に貼り出されてるメニューをみたら「ラーメン」「大盛ラーメン」「ご飯小」「ご飯中」「ビール中」「ジュース」とある。ラーメンは「ラーメン」の一種類だけらしい。わかりやすい。ぼくはおばちゃんに「ラーメンをひとつ」と言った。「ジュース」というのはなんだろうと思った。しばらくしてラーメンがきた。ラーメンが来たら「にんにく入れますか」とすかさず別の女性の店員が駆け寄ってきた。その後も観察してると、ラーメンを出す時に客ににんにくを入れるか聞いている。僕はにんにくが入ったラーメンを食べ終わって、ご飯小を頼んでそれも食べおわり、ラーメン屋を出て温泉を目指して川沿いを歩いて北上した。事前に地図を見たときは川沿いは気持ちが良いだろうなと思ったけど実際は道路の川の側には歩道がなくて反対側を歩かなくちゃいけなかったのであまり皮を感じられなかった。手持ちの石鹸が昨日の銭湯でなくなって、シャンプーもあるか自信がなかったので10分くらい歩いたところにあるファミリーマートに入って石鹸を一つ買った。最悪頭は石鹸で洗えば良い。さらに5分くらい歩いたところに足湯公園というのがあって、投光器が焚かれて人が集まっていた。ステージがあって「おやじロックフェス」という地元感あふれる音楽イベントがちょうど閉会の挨拶をしていた。ちょっとだけそれをのぞいてそばにある「玉の湯」に入った。大人一人200円の公衆浴場と聞いていたので温泉街によくある小さな銭湯かとおもったら結構立派な銭湯で、テレビが観れる休憩スペースもある。テレビのニュースではキューバのカストロが亡くなったニュースに関して、キューバの街頭でのインタビューを放送していた。若い女性が「崇拝すべき人だ」と答えていた。お風呂は結構混んでいた。いまはお風呂上がりで休憩室にいる。これから家(寺)に帰る。最近エレファントカシマシの「扉」というアルバムをよく聞いている。

 

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昨晩は古民家ヴィレッジの2階部分で寝た。一昨日自分の家で寝た時には床下のアスファルトからの冷え込みが結構しんどかった。なので”社長”の石永さん(というらしい)一押しの畳の上で寝てみようと思った。早く寝付こうと思って夜9時頃には寝袋に入った。翌日からのイベントの準備のために、夜遅くまで1階に人が集まっていた。ここの2階は吹き抜けのようなものなので、1階の賑やかさがもろに2階に伝わってくるいのと、あと寝袋の中が暑すぎて寝付けなかった。なので近くにあった窓を全開にしたりした。
僕はいつも通り耳栓をして寝袋に入ってたけど、けっこう会話が聞こえてきた。みんなこの施設のことを「公民館」と呼んでいる。”女性達”がどういう関係性なのかわからないけど、この場所になじみのある人もいるっぽい。不思議なコミュニティだ。夜中の11時過ぎ近くまで準備をしていた。女性達はおでんとかを作っていた。
翌日は朝8時くらいから準備が始まっていた。僕は9時過ぎに下に降りて行って、準備を見学したりしてた。かなりの人数がかかわっているっぽい。15人以上はいたと思う。子供を連れて準備してる人もいた。物販コーナもあって、そこでは「いのちの大切さ」について、一般の人から集められたエッセイをまとめた本が売られていたり、地元の杉でできた木箱が売られていたり、あと大分県から有機生姜シロップとか野菜とか、宮崎県からお米とか米ぬかのお茶とか、いろいろ売ってた。家を背負って歩いてる村上という人がいるということは”ライン”で伝わっているらしく、みんな僕に向かって「村上さんですか」と話しかけてくれた。そのうちの一人のおじさんが「生年月日を教えてもらえませんか」というので教えたら、「マヤ暦って知ってる?」と別のおばちゃんが言う。「最近限界を迎えたというマヤ暦ですか?」と言ったら「ちょっと違うんだけど、まあ話聞いてみて」という。おじさんは携帯で何かを打ちこんで「風か」と言っている。「何かわかるんですか?」と聞いたら「詳しく見てみませんか?まだお時間ありますか?」というので「まだ大丈夫です」と言ったら「ちょっと奥の部屋に行きましょう」と言って奥の部屋に行った。僕はついて行った。
奥の部屋で二人で向かい合って座って、おじさんはA4のファイルとパソコンを広げた。どちらにも色々な記号とか文字が書かれてる。「村上さんは番号でいうと182で、今世は『白い風』です。そして本質は『白い犬』です。あと13の音を持っています。13というのは一番多い数です。」と言われた。白い風にも白い犬にも性質があって、僕はその説明を聞きながら『それはあってる』と言ったり『これは違うな』と思ったりしていた。マヤ暦によると、僕が人生の道を見つけるのは51歳の時で、52歳のときにもう一度生まれるらしい。長生きしなくちゃなあと思った。”音”というのは1から13まで数があって、13の音の人は、要するにまわりの音を13こ聞くことができるらしい。1の人は1つの音しか聞こえないらしい。この話は納得がいった。でも納得がいくというのはどういうことだろう。おじさんの話を聞きながら、昔新宿の路上でお金を払って手相占いしてもらった時には『あんたは30で自分の道を見つける』と言われたことを思い出していた。確かあのときは誰かと一緒にいて、本当は両手みるところを、二人で片手ずつ見てもらって、一人分の料金だけ払ってやってもらったんだった。あのときは誰と一緒だったんだっけ?思い出せない。自分は大学生だった気がする。

11時過ぎに古民家ヴィレッジを出発した。大牟田方面に延々延々と歩いた。福岡は話しかけてくる人がたくさんいる。写真を撮っていいですかとか、何やってるんですか写真撮っていいですかとか、どこまでいくんですか写真撮っていいですかとか、いくつですかとか、警察にも久々に職質された。
20キロくらい歩いて夕方4時半頃に大牟田の国道沿いにある教会みたいな建物の真宗の法恩寺というお寺のチャイムを押して敷地の交渉をした。女性がでてきて、いろいろ説明して、その人がコーヒーも出してくれて、僕はそれを野外で飲みながらすこしおしゃべりして、そうしてるうちに住職さんが帰ってきた。住職さんは目力の強い人で、最初は明らかに僕に敵対心を向けていたけどすこし話してるうちに(身分証明書を要求されたので見せたりもした)すこし信用してくれたらしく、許可をくれた。最初は駐車場の桜の木の下に家を置くということで話がまとまったのだけど「雨が降ったらどうする。今日はこれから雨だ」といって「正面の門を入ったところが3畳分くらいの玄関になってるからそこでよければ中に入れていいよ」と言ってくれたのでそうした。
住職さんが「何かあまりものでよかったら出すよ。今日はスペアリブをやるみたいだし」というので少し待っていたら女性の人がおにぎり二つと漬物とスペアリブ2切れとパスタと茹でたジャガイモにマヨネーズをかけたものを一式お盆に入れて持ってきてくれた。とっても美味しかった。ありがたい。なにかお礼をしたい。
そのご飯を食べたあと歩いて10分くらいの「神明湯」という渋い銭湯に行った。かなり古い型の銭湯だった。入り口はドアがふたつ並んでる。ドアには「男湯」「女湯」とだけ目立たずに書かれている。遠目からはここが銭湯だとは気づかないかもしれない。おばちゃんが番台にいた。男の脱衣所には小さな老犬もいた。ひとなっつこいやつだった。良い時間だったけど僕の他には男湯には一人も客がいなかった。女湯には一人客がいるらしく、ときどき音が聞こえた。大人380円だったけど、運悪く財布に小銭が200円と1万円札しかなくて、「大きいのしかないから崩してきます」とおばちゃんに言ったら「どこでくずすの?」と聞かれた。「どっかでなんとか」と言ったら「いいよ。ちょっと待ってください」と言って脱衣所についてるドアを開けておくに消えていった。しばらくして千円札をもって現れた。「9千6百20円のお返しね」といっておつりをくれた。「すいません。ありがとうございます。」と言って受け取った。それから着替えて浴室に入った。浴室には「お湯が減ったら『お湯』と『水』をだしてください」と書いてある紙が貼ってあった。こういう銭湯はたいていめちゃ熱いのだけど、ここはぬるめで入りやすかった。こんなに熱くない古い銭湯は初めてかもしれない。いままでかなりの数の銭湯に入ってきたけど。お風呂をでるまで他に客は来なかった。
銭湯を出たら、雨はほとんど止んでた(お寺に家を置いたときからちょっとだけ降っていた)。歩いて家に帰ってきて、荷物をおいて、手ぶらになって散歩にでかけた。すぐ近くに大牟田駅がある。そこにファミリーマートがある。一回入って、なんとなく何も買わずに出て、ちょっと歩いて引き返してきてもう一回入って缶ビールを一つだけ買った。その缶ビールを飲みながら、ふらふら歩いた。駅前の国道(お寺の前の国道でもある)はとっても広くて、大牟田がもともと炭鉱で発展した町であり、いまでも工業団地として発展している町であることが感じられた。大牟田の炭鉱は世界遺産にもなっているらしい。駅前の大きなモニュメントにそう刻まれていた。
ふらふら散歩しながら、来年東京でやる展示について考えていた。「文明ング」というタイトルにしようと決めた。そういえば、マヤ暦のおじさんから「節をつくったほうがいい。竹と同じで。だらだらと節がないのはいけない」と言われたんだった。態度表明をしないと、伝わらないのだと思った。これはこう見えるだろうという自意識を少なからず考えないと何も伝わらず、何も伝わらないのは良くない。他にも「わが家の崖」とか「家カッター」とかいろいろ考えたが「文明ング」としか言えないものがある。文明という言葉のing型。瞬間の永遠というか。このグローバリゼーションと分断と孤立の時代に「文明ング」という態度を表明しないといけない。関係代名詞についても考えたい。「&」や「と」という言葉。展示したいものはたくさんある。次は「人に見てもらうための展覧会」をつくるという意識でもって臨んでみたい。
いまは玄関に置いてある家の中でこの日記を書いている。家の目の前にはトイレも2部屋ある。このトイレのドアノブが不思議で、下ではなく上に引き上げないとドアが開かない。二つとも。気がついたらこれを書き始めてから1時間経っている。

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朝家の中で寝ていたら人が近づいてきてドアを開けようとしたので「はい」と言って窓を開けたら「ああ、すいません!」と驚いて「なにかなーと思って、お休みになられてるとは知らずに」と言うので「この家を管理されてる方ですか?」と聞いたら「管理というか、所有者です」と言う。こちらこそこんなところで寝かせてもらっててすいませんという感じだ。そのおじさんは地元で建築家をやっていて、シックハウス症候群や色々な家に関する問題を考えていった結果、地元産の材料で家をつくることに行き着き、そういう住宅を作ってきたらしい。最近は建築設計はもう若いのに任せて引退して、自分は「もう年金生活だから・・」と、東京などでこの地方でつくられたものの素晴らしさについて話したり伝えたりすることに専念しているらしい。問題をみつけ、そのために行動し、今は伝える側になった。
この家は明治二十年くらいに出雲の方から移築されてきた古民家で、数十年前にこの家に住んでいたおばさんが亡くなり、しばらく空き家だったんだけどそのおじさんの一念発起で、そういう活動をするための拠点として買いとり、NPOを立ち上げた。「いまではみなさんに好き勝手使ってもらっている」と笑って話してくれた。「明日から女性たちが”命の大切さ”についての朗読をやるイベントがあるから、もし時間があったらもう1日いてってください。中に無料で泊まっていいから。」と言うのでそうすることにした。
お昼前に”女性達”が集まりだした。話を聞いてみると明日明後日命に関しての文章をみんなに寄せてもらって、それを朗読するというのがメインのイベントらしい。「わたしたちも日本をあちこち動いて活動してるの」。
僕は今日は1日かけてこの「古民家ヴィレッジ」を描いてた。このあたりは近くにコンビニもスーパーもなくて、自動販売機が5分くらいあるいたところにある。他は民家や工場。大きな川もある。最寄りのコンビニはセブンイレブンで30分くらい歩く。そこからもうすこし歩いたところに芸文館がある。コンビニまで行けばそばに「恋ぼたる」という道の駅みたいな施設があって、そこには温泉もある。朝からずっと絵を描いてたけど夕方ちかくになってお腹が空いたのでコンビニまで歩いて行った。途中に工場とか瓦礫の山と化した空き家があったりしたけどほとんどは畑と田んぼ。昨日聞いた話だと筑後は小麦も多いらしい。
コンビニでカップラーメンとお菓子の詰め合わせを買ってカップラーメンにお湯を入れて、温泉館がある公園(広域公園という名前で、広大な芝生の公園。とにかく広い。)に歩いて行ってベンチに座ってカップラーメンを食べて、お菓子の詰め合わせを食べながら温泉館に向かって行って、温泉館の受付で500円払って温泉に入った。脱衣所のロッカーがなぜか有料で、十円だった。温泉は茶色い水で、硫黄と鉄っぽい匂いがかすかにするけどしょっぱかったりはしない。炭酸泉らしい。地元のおじさんがたくさんいて、特に露天風呂の方はお湯の温度がぬるいのもあって、おじさん達が入り浸って相撲の話や野球の話をしていた。ちなみにやっぱりこのあたりはソフトバンクホークスファンが多いらしい。おじさんたちは、博多弁が強くて、相撲や野球の話をしているのはわかったけど具体的に何を話してるのかは全然わからない。若いお客さんは見たところ一人もいなかった。温泉の食堂兼休憩所(おじさんやおばさんたちがテレビの前に集まって相撲を見ていた。大事な場面らしかった)でドローイングの続きを少しだけやって温泉を出て、またコンビニに寄って納豆巻きとチャーハンおにぎりと辛子高菜おにぎりとバドワイザーの缶をかってバドワイザーを飲みながら家(古民家ヴィレッジ)まで帰った。道では車はたくさん通り過ぎていくけど、歩いてる人は他に一人もいない。古民家ヴィレッジに着いたら朝会ったおじさん(”女性達”からは社長さんと呼ばれていた)が中で、木村さんと芸文館の学芸員のみまんださんの布団や荷物を離れの方に移しているところだった(「こっちに明日のイベントの女性陣がとまるから、あっちに移しておいた」)。”社長さん”に朝の話の続きを「ものづくりって具体的にどういうものですか」と聞いてみた。「自分は建築屋さんだから、建築に使うもの、例えば漆喰とか、杉板とか、畳とか」。
地方のものづくりっていうのは家族とか夫婦単位だから、企業としての持久力がない。だけど品質が素晴らしいので、残りの人生をかけてこれを伝えていきたい。矢部川のいぐさを使った畳。このあたりは熊本県の八代に注ぐ産地なのだけど、品質が素晴らしい。加工して表面積を増やした杉板。からだに良いし、悪いものは吸収してくれる。
「女性陣は8時前には帰って来ると言ってたから、なかよくやってください」
と言って社長さんは帰っていった。もうすぐ8時になる。寝るか。

 

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みんな誰が好き何が好きとか簡単に言うが、~は実は~で、これがどうしても納得できないとかいろいろ話してみると、それは聞きたくなかったという言葉が平気で返って来る。こんなにみんなが上っ面しかみないのだったら、上っ面をめちゃくちゃにやっていくしかない。ああ。これはこうで右は左でとか、そういうことはどうでもいい。深みに真実を求めてはならない全ては表に現れてくるみたいな言葉があるけど、僕にはどうしても人間は内臓に支えられて生きているとしか思えない。だったらからだを裏返して内臓を表にだすしかない。要約するのもやめよう。過去に積み上げてきたものを一度切り刻んでいこう。

今日お昼頃に九州芸文館に関わる人たちが打ち合わせをしに牛嶋さんのところに来たので、そのトラックに家を乗せてもらって筑後市まで運んでもらった。木村崇人さんというアーティストが12月から芸文館をやるらしく、木村さんが滞在しているレジデンスの施設の一角に家を置かせてもらった。いつもなにかのおまけとして、すみっこに僕の家がある。この感じが好きだ。
(こうやって日記を書いているとき、無意識のうちに頭で推敲してしまっている。ウェブで人に公開する文章であることを意識してしまっている。このストッパーを外したい。推敲せずに、とりあえず文章としてあらわす訓練をしたい。「書くことの凄み」を体現してみたい。これからは意識的に、一度書いたものは消さずにどんどん残していこうと思う。)

牛嶋さんと別れた(またすぐに会えそうな気がする)あと、トラックの一行は一旦木村さんのレジデンスに行って家を置いた後、また別の滞在施設に行って、木村さんが作品の素材として集めてきた自転車をトラックから降ろすのを手伝った。そこには韓国のアーティストと日本の上岡ひとみさんというアーティストと、そのコーディネートをしている人がいた。上岡さんはベルリン在住で、彼女いわくベルリンは天国のようなところみたいだ。「一つも悪いところがない」くらいの勢いで素晴らしい街だと言っていた。ビールが30円くらいで飲めるし、子供が3人くらいいる家庭は国からの養育補助のお金で暮らせるので働かないで子育てに専念できるという。アーティストもいっぱいしるし、クラブもたくさんある。住みたい。
とにかくその施設ではその韓国と日本の二人が共同生活をしながら制作している。筑後市はなんだかレジデンスとか、美術の展覧会のプログラムがたくさんある。不思議だ。芸文館の目の前の筑後船小屋駅というところは新幹線も停まる駅らしいけど駅の周りは田んぼや畑が広がっている。芸文館だけが現代的なデザインのとんがった建物で、異様な存在感を放っている。隈研吾設計でまだ築4年くらいみたい。本当は駅の周りも開発して活性化させたかったらしいが、予算がなくなったみたい。
ちなみに今は木村さんと学芸員の人が滞在している施設(家が置いてあるところ)でこの日記を書いているのだけど、この家も古民家をやりすぎなくらい綺麗に改修しただだっ広い家。相当お金がかかってると思う。立派なお風呂もある。こんな素晴らしい施設で滞在制作できたら夢みたい。でもお金をかけて改装してるのがわかりすぎて絵に描く気にはならない。

上岡さん達が滞在してるところも居心地の良さそうな、古民家を改修したレジデンスだった。そこでいろいろ立ち話をしたあと、お腹が空いたのでお勧めしてもらった「ジャングルスープカレー」というカレー屋さんに一人で行ってちょっと高いけど美味しいキーマスープカレーを食べたあと、芸文館まで歩いて言って木村さん達と合流した。木村さんは「ぬくめ細工」という長崎県の砂糖細工を紹介してくれて、彼らが展示の打ち合わせをしている最中僕はそれを絵に描きながら食べていた。ぬくめ細工の名人だった方が最近亡くなってしまったらしく、木村さんは長崎に滞在している時にそれを見つけて、それをつくるワークショップをしたらしい。見た目は綺麗な白で、すごく甘そうなんだけど食べてみるとちょうど良い甘さでもちもちしていてとても美味しい。もち米と砂糖でつくるらしい。
木村さんは他に雑草が美味しいと教えてくれた。なんでも冬を越して春に出てきたやつは栄養価が高くて美味しいらしい。スギナはカルシウムが豊富で、お茶にすると良い。生で食べるとまり美味しくない。カキドオシもお茶が良い。クズは根っこと新芽が食べられる。新芽は春-夏に出る。イタドリは初夏に生でも食べられる。ちなみに雑草じゃないがタガメはマンゴーの匂いがする。僕は雑草を食べたりとか昆虫食とかそっちのほうはまだ未開拓だけど、道端に生えてるものからビタミンやカルシウムがとれるなら覚えておきたい。木村さんはウインナーにアルミホイルを巻いて100vで通電させて焼いて食べたりするパフォーマンスもやっていたりして、そのパフォーマンスが生まれた経緯がフランスにいた時に寮に住んでいて寮で使える電気プレートが限られていて人が使い終わるのを待たなくちゃいけなかったからなんとか待たずに食べたいからと言って直接ウインナーに通電させたら美味しく焼けたというエピソードも最高。

 

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今日は寒い。東京・松本では雪が降ったらしい。ここ久留米も空気が冷たい。外で絵を描いてるのがしんどい。手袋をリュックに入れておけばよかった。朝は、曇っているのに日が差していて、牛嶋さんの家からは久留米の盆地が結構遠くまで見渡せるのでとても綺麗だった。寒いので空気も澄んでいる。牛嶋さんの家の中には町会の放送が流れてくるスピーカーがついていてそれが毎朝7時に放送があって、それで一回起こされる。お昼の12時半くらいには「広告放送」といって女性のおばちゃんが「今流行っています。オリーブオイルを贈り物にどうですか」という放送や「寒くなってきました、風邪などひきませんように。値引きしてお待ちしております(寝具屋さんの広告)」という放送なんかをやってる。

昨日熊本に向けて移動する予定だったけど、牛嶋さんの奥さんのオーギさんの制作現場(今週末「まちなかアート」みたいな展示に参加するために久留米の廃ビルの2階で制作していた)に立ち寄って、現場での制作が2日間しかできないということで僕も何か手伝いたいと思ったのですこし手伝わせてもらい、そのままもう一泊させてもらうことになった。この「まちなかアート」という企画は週末の二日間だけの企画なんだけど、やたらたくさんの作家が参加していて、たくさん会場がある。こんなに会場を設定しちゃって管理は大丈夫なんかと心配になる。それにしてもこうやってドメスティックに人知れず行なわれているまちなかアート企画は全国にどのくらいあるんだろう。
夜は牛嶋一家に「一味」という久留米ラーメンの店に連れて行ってもらった。久留米ラーメンは細麺で豚骨で、博多に似てる。博多ラーメンの起源は久留米ラーメンらしい。

久留米から15キロくらい南下したところの筑後という町の、筑後船小屋という素敵な名前の駅の目の前に芸文館という建物があって、そこが結構アーティストが展示をしていたりレジデンスのプログラムがあってアジアのアーティストが滞在していたりするらしい。そこなら敷地を借りられるということなので、そこに行くことになった。もうすぐその芸文館の人が別用でこの牛嶋さんの家に来るので、彼らのトラックに僕の家が載せられるスペースがあれば載せて行ってもらうことになった。もし乗らなければ、牛嶋さんに久留米の市街地まで家ごと乗せてもらって、そこから筑後にある芸文館まで歩く流れになる。どちらにしても今日は天気が良いので気持ちが良い。

福岡はアジア美術館があり、実際に朝鮮半島と距離が近いのもあるんだろうけど、他のアジア諸国との距離が感覚的に近いので、アジア(日本以外のアジア)のアーティストにはよく知られているみたいだし、こっちの基準も東京とか日本というよりもアジアにある感じ。

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昨晩、1ヶ月と13日ぶりに久留米の牛嶋さんのところに戻ってきた。九州はあったかい。冬用のふかふかの寝袋を持ってきたけど、まだ春用でも大丈夫だった。もしかしたら逆に暑くて寝付けないかもしれない。昨日の夜なんか半袖でも大丈夫なほど。特にあったかい日だったらしい。この1ヶ月牛嶋さんに家を預かってもらい、本体はバスや飛行機やフェリーであちこちに行って制作をしたりリサーチしたり作品を片付けたり掃除したり人と話したり、あと松本で店番したりと移動しまくった。久留米→熊本→小豆島→大阪→松本→東京→札幌→東京→小豆島→大阪→松本→東京→久留米。
今年は家との移動は少なくて、僕本体だけが作家として移動することが多い。家は小豆島から久留米まで移動しただけだ。制作の仕事のために移動しているのにお金がなくなっていく。絵本でもらった原稿料で二年くらいは生きていけるかと思ったけどもうなくなってしまった。変化が大きい。
今日から熊本に向けて歩く。家と一緒に。なぜか気持ちとしてはのんびりしている。予定に追われながら飛行機とかで高速で移動するのと全然違う。でも緊張はしている。今年最後の家の移動になると思う。熊本に着いたらそこでまた家を預けて、また東京に戻り、それ以降冬のあいだは家を移動しない。そういう予定がもう立ってしまっている。こういう動き方についていつか振り返りたいけど、とりあえず今は駆け抜ける。そんで引きこもる。
昨晩、牛嶋さんたちと熊本までの道についてグーグルマップを見ながら話し合った。柳川を通って有明海を右に見ながら大牟田の工業団地を通って熊本に行くルートか、山を越えて行くルートか。有明海ルートのほうが面白そうだ。この辺りの人はみんな有明海の干潟でムツゴロウをとったり潮干狩りをやったりしたことがあるらしい。だいたいゴールデンウィークくらいの時期に筑後川から漁師さんが操縦する船にのって有明海の沖まで漕ぎ出し、そこで干潮を待つ。潮が引くと船が干潟の上に乗っかる。それから船を降りて潮干狩りをする。潮が満ちないと船が動けないので、それまでずっと潮干狩りをやり続ける。それが長くて「早く帰らせてくれ」という感じになるらしい。でも貝が大量に取れる。潮が満ちたら、船に乗って、競争するように一斉に川に戻っていく。有明海はかなり沖の方まで干あがるらしい。一回見てみたい。

世界を図式的に(ダイアグラムとして)解釈して、からだでおこす。意外と。図式と概念。

言葉にすることと図式的に解釈することが近い

「テーマ」という言葉

作品を言葉にすること

言葉によって裏打ちされた作品

脈々と続いているもの

愛とは何か:

虚数単位の”i”と”愛”。あるかどうかわからないけどなくてはならないもの。

iがを代入すれば3次方程式がとけるがiは2乗したらマイナスになる。🔜愛

愛とは対象に興味を持つこと

記録媒体としての雑巾。USBでもなくディスクでもなく雑巾:

記憶と雑巾の類似性。脳と雑巾は似た性質を持っている。

見えなかったものを可視化するもの。汚れを

僕たちは重力村の住民で、重力弁をしゃべっている

二藤健人さんと話していて、家族を持つことや長生きモードに移行することについて考えた。

飛行機のスピードは必要ないと言いつつ飛行機を使うこと。

2016年11月7日の夜にじいちゃんから聞いた話のメモ
父方のじいちゃんのそのまた祖父は村上源三郎(源一郎?)という人で、淡路島の人だった。北海道の親戚からの手紙によると源三郎さんは船大工という話だったけど、じいちゃんの話によると船大工だったのは源三郎さんの息子の村上宗吉さんという人の奥さんの小田シゲさんたちの家系らしい。宗吉さんは源三郎さんの三男か四男で、源三郎さんが淡路島で何をやっていたかはよくわからないけど、長男しか家を継げないので「お前は自分で道を切り開け」という流れで北海道に開拓民として行った(じいちゃんは淡路島の村上家は農業やってたんじゃないかと言っていた。「農地もあまりないから北海道に行ったんじゃないか」と)。このとき宗吉さんは多分20歳くらい?
小田シゲさんは兵庫県の人で、赤穂浪士の人たちがいた城の近くに住んでいた。
宗吉さんが小田シゲさんといつ結婚したかはわからないけど、シゲさんの家は船大工だったので、北海道に引っ越しても船大工の仕事のために海沿いに住む必要があった(シゲさんの家族が宗吉さんと一緒に北海道に来たということなのか?このへんはよくわからない)。宗吉さんたちは青森まで言って、そこから船で函館に渡り、苫小牧を通って日高に着いた。最初は日高に住んでいたらしい。そのあと野塚という小さな町に移動した。宗吉さんは馬喰で、馬の売買や牧場をやっていたりしたらしい。
野塚で忍じいちゃんが生まれた。忍は宗吉さんの10番目の子供で、6番目の男の子で、末っ子だった。
じいちゃんは野塚で小学校に通った。そこではアイヌの子供達も一緒に勉強した。アイヌの子供達はみんな貧乏だった。勉強もあまりできなかった。お昼の時間に弁当を持ってきていなかったし、服も寒そうだった。長靴を持っていなかった。みんな羽織の着物を着ていた。アイヌの子達はお弁当の時間になるとどこかにいなくなった。多分どこかに食べ物を食べに行っていた。学校では一緒に遊んでいる人もいた。「学校ではみんな仲良くしましょう」と言われた。物が盗まれたりすると「アイヌの人が盗んだ」と言った。「でもアイヌはしょうがないか」と落ち着いた。
「ひとつ印象深いことがあってねえ」と言っておじいちゃんが話したこと。
『おじいちゃんが住んでいた家は旅館もやっていて、そこではショウチュウという安い酒を売っていた。ある日そのショウチュウを落としてガラスが割れ、道路にこぼしてしまった。道路は馬の糞やらがあってとても汚かった。そこにアイヌの大人たちがやってきて、道路にこぼれたショウチュウを飲んでいた。それをみてじいちゃんは「大変な生活してるんだな」と思った。』
また、アイヌの熊送りの祭りを家族みんなで見に行ったこともあった。声の出し方や踊り方が独特であまり面白いものじゃなかった(これが野塚での事か広尾での事かはわからない)。ちなみに白老には大きなアイヌの村があった。
小田シゲさんは結構なやり手のお母さんで、宗吉さんは「勉強なんかしなくてもいい」という感じだったけど、シゲさんがそれを許さなかった。子供達みんなに勉強させた。長男(じいちゃんのお兄さん)のトミタロウさん以外はみんな(?)師範学校に行った。トミタロウさんは師範学校にはいかなったけど、誰よりも勉強してブンケン(文部省の学力テスト)に合格して、根室高等女学校の校長先生にもなった。師範学校というのは学校の先生になるための学校で、お金をもらいながら勉強をすることができた。「頭の良い貧乏が行く学校」だった。師範学校にはお寺のこどもや旅館の子供も多かった。師範学校では帽子とマントをもらった。また毎月7円50銭もらうことができた。当時は7円で米を一俵買うことができた。みんな「家にお金が送れる」と喜んでいた。
じいちゃんは18歳になって赤紙をもらい太平洋戦争に駆り出されそうになったけど、8月15日生まれという誕生日が幸いして、戦争に行く前に太平洋戦争が終わった。村上家は野塚から広尾に引っ越した。大きな家を建て、旅館を経営した。旅館はシゲさんが先導してらしい。
じいちゃんは札幌の師範学校で民主主義を勉強した。6ヶ月間勉強して「准訓導」になり、大樹小学校で先生をやった。そのあと帯広の高校の先生を一年半務めた。(ちなみに千枝ばあちゃんの出身地は帯広。千枝ばあちゃんとどうやって知り合って結婚したかは聞いていない)
そのころじいちゃんは29歳。「東京に行きたい」と思っていた。東京に行きたいと思ったのは4月だったので、もう仕事を探すのは難しい。「あと一年は北海道にいないとダメかな」と思ったけど、(勢いで)東京に行ってしまった。千枝ばあちゃんも説得して一緒に上京した。東京での仕事のアテはなかった。
東京に行ったら、たまたま高等学校の先生から「音楽の先生で2名の追加募集がある」というようなことを聞いた。その追加試験に合格した。それで中学の音楽の先生もできることになった。金町中学校の音楽の先生になり、お花茶屋に住み始めた。

2016年11月8日に父から聞いた追加の事
父によると、じいちゃんは東京に来て日大の芸術学部の音楽学科で音楽の先生になるための勉強をしたらしい。その後じいちゃんは足立の伊興中学校の校長先生にもなった。父は東京で生まれた。日大の経済学部を出て時計店でスチールと皮のバンドを取り扱っていた。当時はバブル期で、数百万~一千万円する高い時計も売れた。残業は150時間だった。給料よりも残業代の方が高かった。25歳の時に喧嘩して時計店を辞めて音楽の勉強のためにセイセン音楽学校に入った。そこで母と出会った。母は沖縄から歌をやるために上京してきていた。「卒業したら音楽の先生になるから」というセリフで両親を説得して出てきたけど先生になるつもりはなかった。
27歳の時に父は専門学校を出た。母は新宿でOLをやっていた。僕が生まれるまで父は正規の先生じゃなくて講師として働いていた。教員採用試験はとても厳しく、なかなか受からなかったけど、僕が生まれた後に合格し、正規の先生になった。
僕が小さいころ一緒に住んでいた渋谷ミスエさんは、千枝ばあちゃんの母親。ミスエさんはばあちゃんの父の再婚相手で、ばあちゃんには兄弟がいたけどミスエさんの子供は千枝だけだった。なので東京で一緒に住んでいた。

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話をうけて
僕はミスエさんがなんで一緒に住んでたのか、これまでに聞いた事があるのかもしれないけど全然覚えていなかった。結構すごい事だ。
アイヌの大人たちが道路に溢れたお酒を飲んでいるのをみてじいちゃんが「大変な生活をしている」と感じたのがひっかかる。

札幌で展覧会に参加しています。

◯さっぽろアートステージ2016
アートストリート「それぞれの時間」
会場:チ・カ・ホ(札幌駅前通地下歩行空間)
会期:2016年11月05日(土)〜2016年12月04日(日)9:00 – 21:00
参加作家:玉山拓郎、ケビン・ガフニー、山城大督、地主麻衣子、佐藤雅晴、高橋喜代史、鈴木悠哉、張小船、進藤冬華、村上彗、櫻田竜介
http://www.s-artstage.com/2016/artstreet

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看板をつかって色々やりたいと思っていて、いろんな人にプランのアイデアのPDFを見せていたら、屋上に白い看板が余っている建物に出会った。大阪の谷町6丁目駅から歩いて5分くらいのところにある「上町荘」という建物で、建築家の山口陽登さんを始めとした建築家や学生と一緒に掃除から始めた。
今回は看板の内部空間をギャラリーに改装して、看板で得た広告収入で中のギャラリーで展示をするというもの。ギャラリーをまわしていけたら良い。上町荘は1階がイベントスペースのようなところで、2階と3階に建築家やデザイナーの事務所がいくつか入っています。
10月16日に掃除とサビ落とし。11月11日に内部の鉄骨のペンキ塗りと「広告募集」という字をモップで書いた。今はスポンサーを待っている状態。せっかくなので学生を含めた少人数のチームをつくってやっていこうということになった。

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