家族で「この世界の片隅に」を亀有で観た。「かぐや姫の物語」を高松の映画館で見たときのことを思い出した。輪郭戦がぶるぶる震えるような、ああいうアニメーションが映画館で見られるようになったんだと。その延長にあるような。着物をもんぺにするシーンで頭の中のことがスクリーンにそのままでてくる感じとか、夢と現実が混同されたりする感じが、編集・カットすることや物語の中で次々に出来事が降り注いでくることに対して役割をこなし続けることがつながっている。アニメーションという手法に対しての自覚と、物語の中身に対しての自覚が同じライン上にある。
「火星の人」のことも思い出した。細かいディティールが、現実の出来事が話をつくっていく。そこに「作者」の”想像力”はいらない。細かく、例えばご飯とか、服とか、景色を検証していくと自然と物語が立ち上がってくる。
トランプ大統領の演説やツイッターでの発言と、それに湧き上がる人たちとを見ていて、もしかしてこんなノリで原爆を落とされたりしたのかと思うと怒りが湧いてくるが、映画の中で最後のシーンですずが玉音放送で怒ったことは、これに近いのかな。
また「言葉で考えること」と「生きること・役割をこなすこと」の間にある溝についても思い出した。というか「一人で考えたり作ったりすること」と「みんなで生きること」のあいだにある溝の大きさというか。家族で見て、一緒に見た人を離れてこうやって一人で言葉で色々考えて分析しようとする行為自体もナンセンスだと思ってしまうような。そういう批評性もある感じ。まいった。