ラディカル・オーラル・ヒストリーという本の中で著者の保苅さんが、アボリジニーのある長老に関して

「ジミーじいさんの関心は、目の前にいるこの僕が、自分の話をちゃんと聞いているかどうかであり、その話を、オーストラリアや日本でちゃんと語り伝えるつもりがあるかどうかだったのだと思います」

と書いている。またこのジミーじいさんとの出会いが、歴史学者である自分とアボリジニーの人たちの関係を「私と彼等」から「私とあなた(たち)」に変えてくれたとも言っている。アボリジニーの歴史観は、石が歴史を語ったり、大地が歴史を語ったり、大地が人を殺したりするので、それを歴史学者である自分が、”歴史”として引き受けることができるか、ということがここで問題になっている。

先週、awaiの二階で遠藤一郎さんが来てくれて雑草酵素の話をしてくれているとき、奈保子が記録写真を撮ろうかと思ったらしいんだけど、カメラを向けるのが失礼に当たる気がして撮れなかったという。それは一郎さんが目の前の自分に向けて話してくれているのがわかるから感じることだ。

時々、カメラを向けることは目の前の対象を「あなた」から「彼等」に変えてしまうんだと思う。ちゃんと「私とあなた」として話をしているところでカメラを向けるということは、ようするに目の前の相手の話を私でもあなたでもない「彼等」という、なんかよくわからない立場に追い込んでしまうことがあるんだと思う。SNSでもそういうことは度々あると思う。自分が誰かとした体験を、SNSにあげるということは、その経験を共にした誰かを「あなた」から「彼等」に変えてしまう。ということでなんだか怒りが湧いて来たので、再びFacebookアカウントを消した。フェイスブックアカウントを停止する時、友達になってた人たちのプロフィール写真が「~さんが悲しむと思います」「~さんが悲しむと思います」「~さんが悲しむと思います」という文字と共にずらっと並ぶという画面にあって、これは悪夢だと思った。