自分の近くに人がいると思ってしまっている。すぐにラインでテキストを送り、それがすぐに見てもらえて、返事がもらえると思ってしまっている。その気になれば電話して、いつでも話ができると思ってしまっている。ツイッターで呟けば、誰かがすぐ近くで見ていると思ってしまっている。もしかしたら思っているよりもずっとずっと遠くに人はいるのかもしれない。手紙を書いたり、三角屋台でいろんな人と話していて思ったが、人とのあいだには霞んで見えないくらいに距離があって、言葉や行間や息遣いをもっと丁寧につかって届けないと、本当には届かないものかもしれない。すぐに声を発して呼びかけそうになる気持ちをぐっとこらえて、息遣いを整えて、言葉を選んで誠実に投げかけるようにして、その距離の尊さを忘れないようにしなければ。

awaiartcenterの「冬のあわい」のために26人に出した「冬について尋ねる手紙」の返事が13通くらい返ってきている。それぞれの冬はそれぞれに全然違って観て楽しいのだけど、今や僕たちはインターネットで密接につながっていて、「その人が書いた最近の文」とか、「その人の近況」ってのが、あまりにも簡単に読めたり見えたりしてしまう。手紙もいいのだけど、なぜインターネットじゃダメなのかという”Why not?”も同時に考えないといけない。Aokidが「落ち着いた暮らしなんていらないと思ったんだった」「もっとすごい落ちついた暮らしのために今は」というようなことを書いていて、背筋が伸びた。冬だからといって落ちついてはいられない。休ませることによって再び全開で動くことができるエンジンのようなもの抱えていることを忘れないようにしなければ。

この冬は今の所ずっと松本にいて、それは冬くらいゆっくりしてみようと思っておでん屋さんを始めたからなのだけど、1月半ばにして既に動き回りたくてうずうずしてきていて、つくづく自分の性質には逆らえないものだと感じていて、最近はとにかく今後の準備だということで広告看板の家のプレゼンと展示のための作業を詰めている。松本は天気が良い日が多くて空気もカラッと乾燥していてとても気持ちが良くて、さらに浅間温泉のほうの県営住宅に寝泊まりし始めてからは、当初はあんなにきつかった寒さを厳しく感じることも少なくなった。昨日は珍しくどっさり雪が降って、松本の市街地でも30センチ近く積もったのだけど、雪が降ったら砂利とアスファルトと白線と敷地境界で覆われた地面が白く消されて、そこに大地が出現した。街を歩きながら、それまでは道路沿いに建っているように見えた家々が、今では「道路」が消失して、ただ白い”大地”の上に建っているように見えて、自動車も、道路上を白線に沿って走っていたそれまでとは見え方が全然違くて、その「白い大地」の上をふらふらと走りまわっている「機械」のように見えた。逆に言えば、それまでは「機械」というよりは、「交通機関」というか、人や物が”自動的に”かつ”レール上で”動かされるものというように見えていたということだ。それはとても気持ちが良い景色だった。ほとんど革命的な見え方の転換が起こっていたように思う。

「道路」というものは、お金によってやりとりされ、境界線によって区切られることによってまわるこの都市を象徴するような存在だったということが、雪によって消失したことによって逆に露わになった。

雪が降って、白い大地の上でただ雪かきを頑張るしかない僕たちがとても動物的な振る舞いをしているように感じられた。小さいスコップをもって、ただただ雪かきをするしかない小さな存在だということを気付かされた。そして雪に覆われた、冬枯れの木々は美しかった。さらに自分の家の前を雪かきするのはとても気持ち良かった。

いまではまだ雪は降っているものの、すっかり除雪された道路が再び出現している。自動車は機械から交通機関に戻り、大地の上に建っていた家は、再び道路沿いに建っている。

小説のほうの「道路」は全然進んでいない。思いもよらない仕事が入り、それに思いもよらない多くの時間が取られてしまった。ひと段落したので、これからすこし文章にも力が注げるかもしれない。力を注ぐということは時間がかかることなので、力を注ぐタイミングと対象をちゃんと考えないと、力は注げなくなってしまう。なぜなら時間は有限なのだから、と続けて書きたくなる衝動を抑えて、ふと時間は有限なのかと考えてみると、どうもうさんくさいというか、時間を「有限」かどうかと考えることじたい、既に何かに毒されている。

普段生活していると、僕の目にはどの瞬間にも「現実」が映し出されているはずなのだけど、最近、その目の前の現実を見る時の”感じ”が、過去の出来事を思い出しているように感じるのと近い気がしている。それはちょっと意識を変えれば未来を見ているようにも感じられると思う。昨日、初めて日本語字幕付きで「メッセージ」(しかしこの映画、原題は「arrival」。こっちのほうがずっとふさわしい。原作となった小説のタイトルは「The sroty of your life」だった)を観た。時間には始まりと終わりなんてものはなくて、過去を見るように未来を見、未来を見るように過去を見て、たとえ運命が定められているものだとしても、それを積極的に受け入れること、という素晴らしく、でもちょっと危ない思想の作品だった(またその内容が、映像作品としての見せ方とも一致していてよくできていた)。時代によっては、検閲の対象にもなり得る、厳しい資本主義批判の作品でもあると思う。

主に「お金」とそれを取り巻くシステムによって僕たちは、時間とは過去から未来に流れるものだというふうに思い込まされている。貯金とか保険とかローンとか月々の支払いとか、お金にまつわる現代のほとんど全てのことは過去から未来に流れる時間という考え方を前提としている。「はじめのお金」はもうすこし違ったものだったはずだ。地球が丸くて回っていて、四季が巡っていることを思い出すだけでも違う。

ミヒャエルエンデは「”経験”はそれだけで素晴らしいものだ」と言っていた。「経験」は後のために役に立つから良いっていう考え方は、貧相で卑しくて下劣で下等で悪い考え方だ。すごく悪い考え方だ。最悪だ。その考え方に立ってしまったら、どうせ最後には死ぬんだからなにやっても無駄だということになる。そんなわけがない。そうであって良いわけがなくて、その瞬間に与えられるものが既に”答え”であって”成果”であるわけで、これがわからないままみんな生きていて社会を無意識に設計しているから訳のわからんことになっている。