夏の太陽みたいにそれが無自覚であっても人に対して行った無神経はこちらにそのうち跳ね返ってくるわけで(それは因果のようなものかもしれない)、それが何年にもわたって行われていたのなら、それはそれ相応の自分の心への反撃を覚悟しなくちゃならなくて、その覚悟を持っていなかった自分の責任を人への攻撃に転換してはいけないぞ。跳ね返ってきたときにその原因の相手が無自覚であっても、それは自分の無自覚の跳ね返りなので、それはもう本当にひたすら耐えなければいけない。俺はいつからこんな傲慢な人間になったんだ。何かと色々な瞬間を思い出して、あのとき俺は無神経だったかもしれないとか、あのとき、ちゃんと考えて返事をしていなかったんじゃないかって考えてしまうことはたくさんあって(これはもう幼い頃からの癖のようなものでどうしようもない。これも傲慢さだ。)ちょっと思い出すだけで山のように出てくるソレなので、思い出すことも気づくこともできないソレがはたしてこの29年間の人生でどれだけあっただろう。その反撃を食らうことはこれからもあるだろう、たぶんいやになるくらいあるだろうけど、覚悟を決めて受け止めないといけない。怒りに反転させずに、ただ正面切って受け止めるぞ。これは宣言みたいなもんだ。ほんのすこしタイミングが違ったり、ほんのちょっとの言葉が足りなかったりするせいで、そこからドミノ倒しみたいに一方向に感情がどんどんすすんでしまって、最終的にとんでもなく大きなドミノが倒れてしまったりなにかが犠牲になったりすることはすくなくないけど、その最後のドミノのおかげでまた新しい道が現れて、それが意外に楽しかったりもっと大事だったりすることもとても多くて、そうやって岐路をいくつも経て最終的に、誰もが、たぶん生まれた人全員が、他には誰もたどり着くことができないところまで進むことができるのがこの一回しかない人生の素敵なところで、だから比べられるわけがないんだハナから。(そして人生のどの瞬間でも幸せと言えば言えちまう憂鬱を宮本は歌っている)色々余計にドミノを倒しつつも、それは間違いなくその人の人生なので、すでに起こっていることがその人生の成果そのものであって、つまり、いつも”結果的に”その瞬間に起こっていることがその人生の全てであって、そこには過去も未来もないはずだ。ただ僕は今日は今日の「悲しさ」や「楽しさ」といるだけのはずだ。僕は今日、今日のさみしさや今日の楽しさと一緒にいられるのが嬉しいはずだ。大丈夫なはずだ。大丈夫なはず。carpediem。それにしてもいい季節になった。公園のベンチでも長々と文章が打てる。このまま外でも寝れそうなくらいだ。春は白い光だ。どこかでなにかが始まっているのを感じる!

花の慶次で佐々成政が追い詰められたとき、慶次に向かって「よかろうこの首を打ち取り、末代までの武功とせよ」と言っていて、それに目が潤むくらいに感動してしまって、それっていまでいうとなんか自意識過剰とか言われちゃって、自分の首に価値があるとか思っちゃってんのみたいな、ねじ曲がった価値観があってそれがおれらの気持ちをどんどん後ろ向きに引っ張っている。自分は人生の中でたくさんの修羅場をくぐってきて、れきしがあって、その積み重ねで、自分に価値があることを自負していて、それで自分の尊厳とともに生きていて、それは眩しいくらいかっこよかった。もしかしたら、おれが思っている俺の価値なんてものは、おれの思い込みなのかとか、おれが自意識過剰なだけなのかとかそんなクソみたいな意識はそこには微塵もない。自分がやってきたことを自分が認めていれば、それは全員にとっての価値なんだ絶対に誰がなんと言おうと。慶次を教えてくれた内田ありがとう

ずっと溺れているみたいな状態が続いていて、昔みたいに夜地元を散歩してて、ただ昔とちがって今はジョニーウォーカーのブラックレーベルの小瓶と一緒なのだけど、そしたら割烹着のおばちゃんが公園のそばの赤提灯から出てきて、お客さんの自転車を乗りやすいように出してるところをみて、突然胸に満開の花が咲いたようになって、気がついたらぐっと拳をにぎっていて、それでおれはもう大丈夫かもしれないと思えた。気持ち次第ってのは、風向き次第に似ていて、飲み込まれてしまうことも多いけど、そこはCarpe diemで、今日は今日の悲しみと一緒にいられることのかけがえのなさを、あの割烹着のおばちゃんが教えてくれた。あとおれにはiPhoneに入ってるたくさんの音楽がついてる

それにしてもお金はすごい。僕は昨年一万円をひろったのだけど、その一万円が持ち主不明でぼくの所有物になった。仮に僕がその1万円でメガネを買ったとして、その一万円はメガネという価値を社会につくり出した”のに”、1万円は無くならずに、僕から眼鏡屋さんのところに流れるだけだ。まるで魔法だ。

葛飾警察署に行って免許証の住所を東京から長野にうつそうとおもって受付っぽい女性に
「長野県に住所が移ったんですけど変更届けはどれですか?」
と聞いたら
「長野では住所変更されてないんですよね。そしたら東京都の住所をこの用紙に書いていただければいいです」
といわれて、ひっこんでしまって、東京の住所とは、この変更前の住所をまたかけばいいのか?でもなんのために?と、しばらくとまどっていたら女性のそばにいた男性が
「あなたは長野では住所変更されてないですよね?!だったら東京の新しい住所をかけばいいんです!」
と強めに言われ
「新しい住所ってなんですか?」
と聞いたら最初の女性がまた戻ってきて
「あなたはいまどこにお住まいなんですか?」
と聞いてきたので(だから長野って言ったじゃないと思いつつ)
「長野です」
と答えたら、なんかひきつった笑いをされて
「あなたはいまどこにお住まいなんですか?」
とまた同じことを聞かれた。
「長野です」
と同じように答えたら女性がカウンターをでて側にやってきて、
「え?東京から長野に住所がうつったということですか?」
と聞いてきたので(だから最初からそう言ってるじゃないかと思いつつ)
「そうです」
と言ったら
「そしたら、長野県の警察署で住所変更をしていただけますか?東京ではそれはできません」
といわれた。(ネットの情報と違うなと思いつつ)
「そうなんですか。わかりました」
と立ち去った。彼らは二人揃って、示し合わせたみたいに同じ思い込みをしていたということだ。思い込みが激しすぎないか?あれが警察官なのか?

何も変わらないよりはマシなんてことがゆるされていいのか?

僕たちが長い進化の末に手に入れたのは孤独だった。お互いの間に深い断絶を得るに至った。人類の進化の末にセブンイレブンが2万店を達成し、イオングループは純利益8兆円を記録したが、合わせて僕たちは、もともと存在していなかった、個体と個体の間の、深い断絶を得るに至った。ウェルベックの本に、善とは繋ぐことであり、悪とは繋がりを断ち切ることだと書いてあった。人の苦悩を、他の人の苦悩と比べることができないということを、どうやったら証明できるだろう。僕の向かいに座っている、ペットボトルのグレープジュースを持ちながらひどく悪い姿勢でスマホを見ているメガネの男と、斜め向かいに座っている紺色の小ぶりなスーツケースと紙袋を右手で押さえながら赤いイヤホンをつけ、すこし顔を傾けて外をぼーっと見ている黒髪の若い女性苦悩のあいだには遥かな隔たりがあって、それぞれの苦悩を比べることなんて到底できないということを、どうやったら証明できる?

冬季うつとトーキングヘッズ

寝返りをうって髪が顔にかかった時、彼の出番を自分の中から感じる。ここはやっぱ彼だろうという、当然の流れという感じで、彼の出番を感じる。

遠くにある湖を下から見ることはできない

神馬啓祐さんと話したこと。
高松次郎の「日本語の文字」と周回軌道(月蝕や日蝕)。”太陽”と”月”あるいは”物”と”それを指す記号”が”ビタビタに”重なり合うこと。あるいは”鑑賞”と”干渉”。また天動説(からだの実感としては天動説のほうがしっくりくること)と、僕の日本地図のドローイング作品のこと。

昨日考えたこと。
椎名林檎が書いた「閃光少女」の歌詞
「今日現在(いま)がどんな昨日よりも好調よ
 明日からそうは思えなくなったっていいの」
が言い当てていることと、映画「arrival」と、ベンヤミンの「歴史の概念について」。時間を”流れ”とはちがう捉え方をすること。
(ベンヤミンは、ナチから逃げるために亡命してピレネー山脈で自殺をする直前まで「歴史の概念について」というテキストを書いていた。死の間際に歴史のことを考えていた。)

バスの中で、大きなスーツケースとバックパック、明らかに他の人間の持ち物よりも体積が大きな荷物、をなるべく人の邪魔にならないように色々持ち替えたり動かしたりしながら考えるのは、例えば僕は会話において引用があったり、他の出来事に結びつけられることが人間の証であり、また男女の格差や社会の仕組みに対して批判的に戦っている人をかっこいいと思っていて、その思想を生活に取り込んで、日々の暮らしの様々な場面で、誰かと一緒に暮らしていたり、誰かと仕事をしていたりするときに、これはこの社会の制度がーとか、そういうふうな話し方をして会話を進めていきがちな事があるし、そういう人間が特にインターネット上にたくさんいることも感じていて、でもそういうときに本当に考えなければいけないのは、それはたしかに社会の制度や男女の格差が前提であって、それは絶対に踏み越えてはいけないステップではあるのだけど、それ以上に、何よりもこれはあなたとわたしの問題なのだということだ。あなたという人は、とりあえず分類上は男あるいは女あるいは性的少数者で、何歳で、体は五体満足あるいは障害があって、所得はどうとかっていう属性をもってはいるけれど、それ以上に、あなたはあなたという存在そのものであって、そのあなたとわたしの関係性においてこういう問題がおこっているのであって、もしかしたら社会の制度とか格差とかはもう全然関係ないと思えばそうも思えるということもある。でも、先人たちが積み重ねてきた歴史や、知恵を参照しないわけにもいかない。でもインターネットは思慮深さを簡単に欠いて、色々な問題を簡単に一般化して、あなたがあなたであって、わたしがわたしであることを踏まえた上でこの関係性ができていて、さらにその上でこういう話題がもちあがったり問題が現れたりしているのだということを驚くほど無意識に忘れさってしまう。
要するに、ぼくが、周りの人たちとの関係性のなかで生きているそのさなかに起こった問題に対して、その場にいあわせない、顔も知らないような人たちからの意見なんて、知ったこっちゃないということだ。まさに、余計なお世話だバカヤロウってやつで、でも問題はこの一般化したがる人たちというものが、自分の中にも住み着いているということで、誰かとコミュニケーションをとるときにはいつも、この点は気をつけなければいけない。歴史を引用することと、社会の問題と、あなたと私の関係性の問題であるということがコミュニケーションということなのだから、あなたはコミュニケーションが苦手ですか?という調査をどっかの会社が先日やったらしいが、普通に考えて、私はコミュニケーションが得意です、とか、不得意ですとかって、簡単に答えられるわけがない。そんなの相手によって変わるし場によっても変わるし、もっというと話題によっても変わる。そういうのを全部すっ飛ばして、人をコミュニケーションが得意な人とそうでない人に二分してしまう、そういう暴力的な力がはたらく調査が普通に行われているのが頭にくる。