アーティストのaokid主催のクリスマスパーティーでダンボールなどを手早く縫えたりなどする道具を作って空間を立ち上げたり何かを色々縫い付けて商品を作って売ったりしようと思っています。台湾でのワークショップを踏まえて考えているアイデアです。よろしくおねがいします。@The CAVE(関内)18:30~

 

SNSが人に与えた影響として文体の変更(特に主語の置き方)があると思うのだけど、それを考える時に思い出すのは昔mixiで高校の先輩が毎日長文の日記をアップしていて、それは独白のようなものだったり日々の自分や周りの人間の振る舞いへの言及だったりして、読み物としてとても面白くて僕はよく読んでいたし「この人はすごい人だな」と思って尊敬していたんだけど、コメントなどは一切ついていなかった。なぜコメントがつかないのか、これが人気の投稿にならないのかよくわからなかった。それはmixiには適していない文体だったからだと思う。僕の日記をそのままfacebookに転載しても、読まれるものにならないだろう。それと同じように。僕は多分今やってみても、フェイスブックやツイッターやインスタグラムへの投稿のさい、文体をどうしていいのか困るだろうと思う。今ではそこからさらにfacebookやツイッターやインスタグラムへの投稿に慣れた上で、そこに「ブログを更新しました」というリンクを貼ってブログに飛ぶようになってきている。そういう人たちの一部が書く文章には味わい深いものがある。

Today, I was able to concentrate on my work for the first time in 3 weeks. I had wrote text of 3000 words for a media. But it is not only for it, also for practice for my own novel. Until now I wrote text that the subject word is “I” as my diary, but I recently wanna try to write a text without using “I” as the subject word of text itself. I think the subject word should be things like ghosts unless the sentences are made by some independent text like a exchange of letters between some people. I think it is better way more than just a diary in order to express my experience and the story that I heard from people I met in my “Living Migration” project. By the way I chose the Piers Cafe opposite the station as my work office and had stayed over 5 hours with only 1 small cup of coffee and 1 cinnamon toast. I might have been the longest stay person in the cafe today. But any waiter seemed not to care about me.

デュシャンのアーカイブフェチっぷりに触発されて3年ぶりにaboutページを更新した。書き漏らしているのもあるかもしれないけど、ここに書かれていないからといってそれがなかったことにはならない。ではなぜ書くのか?なぜ書くのかもわからないのに自分のウェブサイトの更新とか改良とかってやり始めるとどこまで意味があるのかわからないのに何時間でも没頭してしまうし過去の出来事も何をどこまで書けば適当なのかもわからない。その日眠った場所や出会った人まで書いたほうがいいかもしれない。これからは時間を見つけて2014年以降の展示やプロジェクトもまとめていきたいと思っているのだけどそこにまとめられているのは出来事のほんの一部にすぎない、というかもしかしたらその出来事自体とまとめには全然関係がないかもしれない。ではなぜまとめるのだろう・・

「アジアに目覚めたら西洋美術を参照しつつ、なんというか地面の上に立っている表現をたくさん見た。岡崎さんと松浦さんの理念と経験の話を思い出す。美術の歴史という理念と、現実の世界という経験のバランス。経験を、理念からの要請に応じて適度に切断しつつ、積み重ねていく。2018年の僕はこれを引き継ぎ、その上でやっていかなくちゃいけない。とにかく僕はもっとこちらに近づきたいと思った。韓国のイ ガンソという作家が、1973年にギャラリー内で酒場をやるという実践をやっていた。ティラバーニャのニューヨークより20年くらい前に。体型だてたものでないと理解ができないという、こちらの頭の構造をなんとかしなければいけないかもしれない。やっぱり韓国に行くべきかもしれない。

ソウルで結成されたという現実と発言というグループのマニフェスト

「現実とは何か」「それを見てどのように感じるのか」「発言とは何を意味するのか」「発言の方式はいかなるものか」

時代背景を考えると、胸に迫るものがある。

そして近美は立地が良い。展示を見たあと外に出て目に飛び込んでくる丸の内の高層ビルの光がすこし遠くのもののように感じる。いまのこの僕がいる現代が、近代の延長にあるという実感がうまれる。

僕にとって本当の意味での「遊び」は一人で行っているときに生まれた。今では「あの本当に遊んでる感じ」になることはすくなくなったけど。誰かを相手にしないと遊べないと思っている人が多いけど、それは気のせいだ。

だから世の中こんなことなっているんじゃないか。と言いたくなるけど、そういうのはもうできるだけ控えたい。せっかく考えを進めているのにいちいち立ち止まって、我に返って、周りを見て、なのに世の中は、とか言うな。そういうのはもうやめよう。どんどん進めよう。

久々に街に出かけて、絵本のためのドローイングを宅急便に預けた足でongoingに行って展覧会に行って来た。ストレートな政府批判の作品という情報を事前に入れていたけどそうは見えなかった。手や耳や口を塞いだ小さな人のような石膏像がたくさん置かれていて、”現実を見ていない人々”を皮肉りたかったのだろうと思うけど、それが作品として売買されていて、それが一番皮肉だった。この石膏像が誰を指すのかよくわからず、帰りに井之頭公園にいって犬の散歩をしてる人たちや鬼ごっこをしている子供達を眺めながら、この人たちのことを言っているのかと思うと、あんな単純な構図ではないと思った。昨日はPOISON-言いたいことも言えない世の中じゃ-という曲の歌詞について考えていて、この曲もこの作品と同じように、とかく自分の外側(にあると、作者が思い込んでいる)のもの(”世の中”とか”世間”とか)に対しての表現は、紋切り型というか、だいたいどれも同じようなメッセージになる。中心が空の、ドーナツのような物体を見ている気持ちになる。”中動態の世界”からいくと「誰かに騙されること」と「自分を騙すことなく生きていくこと」の境界は実はものすごく曖昧で、物事を見る側の網膜がレディメイドになってしまっている状態を解体しようとしたデュシャンから50年経っても、こんな感じなのかと思った。「中動態の世界」の対極にあるものとして、POISONや、今回の作品を考えてみると良い。テレビドラマのバックアップのもと、国民という”空想の総体”に向けて作られたもの。デュシャンはそれを暴こうとしていた。しかしpoisonに関しては、反町は俳優で芸能人であることを考えると、もっと複雑な話になってくる。。反町がこの歌詞を本心から思っているかどうかは関係なく、俳優としてのアイデンティティと個人としてのアイデンティティを分けて考えていて、つまり「死ぬまでピエロ」を決め込んで生きている可能性もあり、それはそれで「かっこいい」と思ってしまうところだが、それは本当にかっこいいことなのか?「死ぬまで語らず」的な「最後まで役者だった」的なそれ。そういうものを美徳としてしまう考え方も、単なるイデオロギーなんじゃないか?それはなんとなく「ブラック企業」を思い起こさせる。

https://www.facebook.com/pg/ActionforEducation/photos/?tab=album&album_id=2152763928375282

https://www.facebook.com/pg/ActionforEducation/photos/?tab=album&album_id=2152764715041870

台湾の宜蘭でのワークショップが終わった。中学生20人くらいと一緒に1日半の長丁場だった。2つの学校で1回ずつ。計4日間。AGUA Designという事務所が中心になってやっているCITY YEASTという団体から招待いただいて17日から台湾に来ていた。子供達を都市を良くするための酵母菌と考え、action for educationというテーマで世界各地から招いた人と台湾内の学校(どうやら学校側からの立候補で決まるらしい)をマッチングさせてワークショップを行っている。とても良い企画だと思う。何が良いかと言うと、学校教育がこのままではいかんということは全員わかっているけど先生は忙しすぎて余裕がなく、学校内からこういうアクションをやろうと動き出すことは大変ハードなことが予想できるので、外部機関がこういうかたちで教育に介入して、文字通り学校の先生と協力して、その「1日半」ぶんの通常授業の枠をこじ開けて実行している。しかも、今回対象になった学校以外の学校にもこの成果を共有するため、他の学校の先生たちをワークショップ見学に招いたり、終わった後にディスカッション(2回)やフォーラム(1回)を何度もやったり、映像記録、写真記録、文書記録の人がそれぞれいて常にワークショップ中の様子を記録している。事前にインターネット上で顔が入った写真を公開されることの承諾を子供の親から取り、撮影した記録はほとんどリアルタイムで次々フェイスブック上にアップされている。最初にこのプロジェクトへのお誘いメールが突然台湾からきたときはびっくりしたが子供達のワークショップに関しては考えたいところがあったので、この機会にワークショップというものに真剣に向き合ってみようと決めてプランを考えた。最初は身近な材料から椅子を作り、それを被って街に出て、つまり自分が町のインフラになってオフィス街を歩く人たちの前に出てきて座ってもらうために頑張る、というようなアイデアを考えたがそれは「台湾では全員普通に座ってしまうからつまらない」というような理由で却下され、「町の中に自分の町を作る」というものになった。

まず身近なリサイクルの材料(ダンボールやペットボトルや紐など)で家を作る。ただし一人ではなく、3~4人のグループで。それができたら、次に町のなかにあるものを選んで作ってみてくれ、と言う。それは電柱、車、看板、市役所かもしれない、畑、ファミリーマートかもしれない、海や山かもしれない、ベンチかも。そしてなにを作ろうとも、それは自分の家と関連しているので、その家とつなげてみてくれ、と言う。家は最後に外に持っていってそこで町にします。そこで日本から持ってきたおやつがあるので、おやつタイムにしましょう。給食もそこで食べましょう、材料も時間も限られているので、工夫する必要がある。そのときは一緒に考えましょう。

というのが最初のアイデアだったが、実際始めてみると事前に考えた流れとはすこし違うものになっていった。僕も大変勉強させられた。

数人のグループで家をつくり、それを集めて町をつくり、その町の外には公共空間という、本物の町がある。自分たちで作ったその町は、公共空間の中での自分の居場所になっている、という構図を作りたかったのだけど、今回は学校内で作ったものを持学校の敷地外に持ち出すのは立地的に難しく(外には広い場所がなかった)、車やバイクも多いので断念した。なので学校の敷地内の外部空間に町を持ち出したのだけど、そういった、自分の空間と公共空間の関係というコンセプトにも支えられつつ、素材と向き合う作業が予想以上に面白くて、手を動かしながら身近な素材と向き合って、空間を立ち上げるためにどうしたらいいのか考える、するとその素材の性格が見えてくる。ダンボールは面で、紐は線だから、ダンボールは紐で縫うことができる。テープで止めるべきなのは細部の隙間などで、構造的にしっかりとダンボール同士を結合するには紐で縫った方が良い。とか、そのダンボールは、丸めたら棒にすることができ、重いけど非常に強い柱として使える、とか、ペットボトルも繋げれば柱にもなるし、また口が開いているので、そこから屋根を支える棒を入れることができるなどなど。「空間を作る」という単純なワークショップだが、全く侮れない、とても奥が深い。材料がもっと極端に限られていたら、ダンボールじゃなくて新聞紙だったら、など他のバリエーションを考えるとワクワクしてくる。

物は自分の力で読み換えることができ、別の利用方法を考えることができる、なんならそれで自分の居場所までつくることができるということを子供達と一緒に体験できた。僕の「まどり図」という考え方も同じだ。つまり僕の既存の銭湯やコンビニを「お風呂場」や「トイレおよびWiFiスポット」というふうに使って町を自分の家にすることと、紙とかダンボールとか、既存の身近なものを使って空間をつくることは、ほとんど同じことだ。

最初はなかなか手が動かない子もいたが、最後には自信満々に手を動かしていた。子供達からの感想は「自信ができた」というものが多かった。「家を作るのはそんなに難しいことじゃないことがわかった」というのも何人かいた。これには感激した。

2校目のときは外に持ち出すタイミングで少し雨が降っていたので、学校の先生たちは、外に面した廊下(屋根があるところ)に家を出そうと言った。風邪が心配だ、と聞いたのでとても迷ったけど、子供達が1日半かけて防水まで考えてつくった家を屋根があるところに出すのは、歌が上手い歌手をテレビ出演のために口パクさせるようなことになってしまうんじゃないかと思ったし、自分たちでつくったもので雨を防いで、中で給食を食べることができたという経験はさせるべきなじゃないかと思ってやはり外に出したいと言ったら了承してくれて、雨合羽を子供達に配っていた・・僕はこんな学校に行きたかった。

また各々、家に色々なデコレーションをしておりそれも興味深かったけど、何より僕は彼らが家に貼ったテープや、ダンボールに通した紐や折り目などが綺麗だと思った。それはやる必要があると思ってやった跡だからだ。というような話や、日本の津波の話と陸前高田の佐藤たね屋の話などをしてワークショップをしめた。

台湾は初めてきて、食べ物が美味しくて安いので安い安いと言っていたら通訳のハナさんに「最低賃金が125元だから安くないんですよ」と言われた。またちょうどワークショップ期間中は台湾全土にとって大事な選挙ウィークで街中が非常に盛り上がっていた。祭りみたいだった。候補人が車の上で演説しながらゆっくりと走る後ろから子供達が行列して旗を持ってついていくパレードも見た。台湾は最近投票率も上がっているらしい。

台北ビエンナーレも見て来て、julian charriereという作家の映像作品が面白かった。

 

美術館に作品が収蔵されるときに行われる展示のルールなどを決める話し合いのときに、その作家の生前を知らない未来の人間がそれを展示するときに起こりうる問題を考えて、変なふうに解釈されたり展示されたりしないようにするための文言を考える作業は、法律をつくる過程と似ている。

ワークショップのあいだに沖縄のおばあちゃんが亡くなった。お葬式にはいけなかったけど、先月入院中のおばあには親と一緒に会いに行けた。行って本当によかった。口からものが食べられなくなって体重が落ちても、おばあはたくましかった。

住所に生えている木、について考えてみる。家は建てる物で生えるものではない。木は生える物で建てるわけではないが、住所が割り当てられてしまっている。

おばあのお見舞いのために両親と沖縄に来ている。僕はいま母の実家に一人でいる。父と母は予約してあったホテルへ行った。僕は急遽沖縄行きを決めたので同じホテルが取れず、せっかくだからここに泊まりたいと言った。ここはおばあが眠っていた部屋らしい。蛍光灯のじーっという小さな音だけが聞こえていて他には何も聞こえない。庭と畑もある大きな家で、ほかに誰もいないので少しこわいなと最初は思ったけど、母が小さい頃から大勢の兄弟と両親と一緒に暮らしていた家だと思うと怖くなくなってきた。このおばあの部屋の入り口は襖なのだけど、さっき閉めようとしたらとても閉めにくかったので諦めた。おじいとおばあの二人暮らしになってからは、ほとんど閉めずに使っていた襖なのかもしれない。1階の他の部屋も襖は取り払われている。おばあは体重が半分まで落ちてしまっていて、今は点滴だけで命を繋いでいる状態らしい。明日みんなでお見舞いにいく。さっきまで一緒にいた母の姉の節子おばちゃんの話によると、普通に話はするのだけどときどきあっちの世界と交信するような状態らしい。向こうの世界に向かって何かを報告するように話すので節子おばさんが「神様と話してるの?」と聞くと、うんと答えてしばらくしてから、いや神様ではないと言ったり、そこに神様がくるからそこには座らないで、と言ったりするらしい。トイレとか、階段とか、表の作業台とか塀の飾りとか細々したものが、おそらくおじいの手作りで、色合いもカラフルで楽しくて、とても良い家だ。人が自分の手を動かしながら住んでいるという感じがする・・。沖縄の住宅街を歩くと、こういう手作りの良い家がたくさん見られる。家と住人のやりとりというか、何らかの"掛け合い"をみているような気持ちになる。小屋も作ったりする。明日おじいとも会うのだけどおじいもおばあも会うのは8年ぶりくらいになる。小さい時は遊んでもらったけど、そのときはまだ物心もろくについておらず、8年くらい前にあったときは85歳のお祝いの時で他に親戚も大勢いたので、おじいとおばあとはあまり話せなかった。でも三線を弾き語るおじいの姿ははっきり覚えていて、それを思い出すだけで十分に何かをもらったような気がする。沖縄の記憶の中の僕は、いつも大人数と一緒にいて宴会をしていたりバーベキューをやっていたりしている。いま僕がいるこの家が、その記憶の中で思い出される家よりも小さく感じる。小さい時に来た記憶しかないから、そのときのぼくの目線はいまよりもずっと低くて体も小さかったので大きく見えたのかもしれないけど、記憶の中では6畳以上はあった、宴会に使っていたテレビのある部屋は実際には4畳しかなかった。そしていまは誰も住んでいない。おばあは入院して、おじいはいまは老人ホームに入居している。こうやって日記を書いていると、この家の存在が僕の方に近づいてくれているような気がする。広い家に一人でいることがどんどん怖くなくなってくる。ただ、(僕はいまおばあが寝ていたというベッドにあぐらをかいているのだけど)正面にすこし大きな鏡があって、そこに自分の姿がうつっているのがすこしだけ気になる。

展示のために金沢に滞在して居るときに、まあいつものことだけど狭い路地を自動車が結構なスピードで通り抜けて行くことに強い違和感を感じて、そのときメモとして「車は速いけど、なにかを逃している。歩くことのなかには明らかに時速60キロメートルとは違うはやさがある」と書いたのだけど、いま宇沢弘文先生の自動車の社会的費用という本を読んでいて、あの違和感の正体がひとつ腹に落ちた。宇沢先生は霞を食べて生きていそうな仙人のような風貌をしていて、まずそれが凄まじいエネルギーを発しているのだけど、この本を読んでそのエネルギーの出所を見たような気持ちだ。とても古い本なのだけど40刷以上されている。自動車が爆発的に普及した背景を

「自動車の利用者が自らの利益をひたすら追求して、そのために犠牲となる人々の被害について考慮しないという人間意識にかかわる面と、またそのような行動が社会的に容認されてきたという面とが存在する」

「自動車の保有台数が増えてきたのはなぜであろうか。さきにふれたように、そのもっとも大きな要因は、自動車交通によって第三者に大きな被害を与え、希少な社会的資源を使いながら、それらに対してほとんど代価を支払わなくともよかった、ということをあげることができる。すなわち、本来、自動車の所有者あるいは運転者が負担しなければならないはずであったこれらの社会的費用を、歩行者や住民に転化して自らはわずかな代価を支払うだけで自動車を利用することができたために、人々は自動車を利用すればするほど利益を得ることになって、自動車に対する需要が増大してきた」

「自動車の普及によって、他人の自由を侵害しない限りにおいて各人の行動の自由が存在するという近代市民社会のもっとも基本的な原則が崩壊しつつある」

と言い、ここから

「どのような社会的費用を発生させているか、ということに十分な配慮がないまま、各人がそれぞれ自らの利益をのみ追求しようとする一般的傾向を生み出してきた」

と批判している。そしてこの本の目的として、自動車の社会的費用を具体的に算出し、さらにそのことを通じてより人間的な意義のある経済学を探ろうとしている。

70年代に書かれた本であるおかげで、問いかけがとても根本的で、読んでいて色々と思い出したことがある。「道路とはそもそも歩行者のための場所だったこと」「日本の都市部は欧米諸国と比べて公園が極端に少ないけど、それを道路で補っていたということ」「なので、『自動公園をつくる』ということも自動車の社会的費用とするべきだということ」

また『鉄道は鉄道会社が持っている土地とそこにおかれるレールを、利用者の運賃によってまかなうという自然な方法をとっているのに、自動車が走る道路は、自動車に乗らない人も払っている税金によってつくられているという理不尽がまかり通っているのはなぜか』という至極当たり前の疑問もわいてくる。そのようにして作られた車道なのに、歩行者は自動車から隠れて歩かないといけないという始末。なんでこんなことになってしまったのか。最初のルール作りを間違えてしまったために、色々と変なことが当たり前になってしまっていて、さらに宇沢先生も言うように、そういう習慣が知らず知らずのうちに僕たちの心に作用して、己の利益のみ追求するという雰囲気を育んでしまっているという可能性はないか。

廊下に水道がある家

なんだかなつかしい

8月29日、北小松のキャンプ場から金沢まで軽トラックで移動した。レンタカーの乗り捨てサービスで。出発する際、荷物の預かり賃として1000円払った。キャンプ場のおばちゃんに

「こんな仕事してるけど、お父さんお母さんは、反対してないの?」

と聞かれた。僕は応援してもらっています、と言って

「変な仕事ですけどね。」

と言ったら

「そんなことないわ。」

と言われた。それが無性に嬉しかった。

「気いつけて帰ってね。」

ちなみにこのキャンプ場、トイレだけは大津市のやつらしいがキャンプ場の運営は北小松がやっているらしい。おばちゃんは働いて四年目。昨日もフランスかどこかの兄ちゃんが来たと言っていた。

金沢に着いて21世紀美術館が準備してくれたレジデンス施設で1日休憩し、31日に敷地の交渉をしてまわった。映像作家のジョンに撮影してもらいながら。金沢は寺町というエリアがあり、そこにはたくさんお寺がある。しかし6軒交渉して回ったが全てだめだった。

1件目は

和尚が不在で、おばちゃんが「うるさい人やから。いまは寝とるんかなあ。」という感じでダメだったが、クリームパンと野菜ジュースをくれた。

2軒目は

この辺は住宅が多いから色々言われるから無理やわ。もっと上の方行ったら様子も違ってくるかと。とここが一番丁寧に断られた。

3軒目は不在

4軒目は

この辺は防火地区だからとか景観地区だからといろいろ言われ、変なものおけんから、うちも家直すのもいろいろ言われて大変なんや。だから無理やわ。と。この辺は全部そういう地区だから無理やわ。警察に捕まりたくないやろ?などと言われた。一晩でも厳しいんですか?ときいたらそうだと。

5軒目は

保育園と併設されていたお寺だったが、住職らしきおじさんに「うちはお断りします」とバッサリ言われた。

6軒目は

「もっと左のお寺がいいと思うわ」と言われ

「そっちからずっと無理だと言われてきたんですけど」

と言ったら

「うちも無理やわ」

と笑って言われた。

結局敷地交渉は諦め、9月15日からの展示会場に家を移動させた。

-すいません

-ちょっとお伺いしたいんですが

-こういうちっちゃな家を

-あそこにちょっと置かせてもらってるですけど

-背負って歩いて絵を描きながら

-絵描きなんですけど

-絵を描きながら移動しながら生活っていうのをやっていて

そうですか

-いろんな所に家を置かせてもらって

-そこで寝泊りをしながら

この中で?

-はいはい

-寝袋で寝るんですけど

-それで今この辺で家を一晩置かせてもらって寝る場所を探してまして

この辺で?

-ここお寺ですよね?

うん

-一晩境内のどこか

あそこに家あるね

-そうそう

あれか

-あの白い家なんですけど

私だけなんやけどうちの和尚さん何言うかなと思って

-ああ、和尚さんが

-今いらっしゃらないですか?和尚さん

いないみたい

-ああ、そうか

-すいません

はい

-ちょっとお伺いしたいんですけど

-このお寺の方ですか?

はいそうですよ

-駄目だって

-民家があるから

-周りの人が言うとうるさいからっていう

(チャイムの音)

はーい

-すいません

なんでしょう

-ちょっと通りすがりのものなんですけど

はい

-ちょっとお聞きしたいことがあって

なんでしょうか

-あのですね、あそこに家を置かせてもらってるの見えると思うんですけど

何を?

-あの白い、家みたいなやつ

はい

-あれ僕こうやって背負ってですね

はい

-発泡スチロールで作ってあるんですけど

はい

-歩いてまわりながら絵を描いてまわってて

-日本のいろんなところを

はい

-で、あの家の中で寝泊りしながら移動生活してるんですけど

ここらへんは無理やわ

環境保全ほいくやったっけか

ここなんとかほいくになっとって

物おいたりできん

伝統環境保存地区になっとるから

やたらあんな・・

なんか家を背負って歩いて寝泊りしてるんですって

で、ここらへんは無理やわ

寺多いここは

-あ、そうですか

ずっと上の方までアレされてるんもんで

建物の色とかそんなもんも全部制限されてるので

無理ですわ

はい

-無理

ここ寺町地域のお寺多いところはそういうことになってるので

-なるほど

はい

-一晩でも厳しいですか?

うーん

置けない

だってうちでさえ直したりするのも制限されてるんですよ

木一本切るのも制限されるんですよこの辺は

伝統の地区だから

-わかりました

寺町はちょっと無理

もうちょっと上の方行くか、川を渡るかどっちか行かないと

ここら辺は無理ですわ

-なるほど

準防火地区で、伝統環境保存地区になってるから

だからそういうの置けない

お巡りさんもうるさいし

県とか市とかもうるさいですよ

-なるほど。わかりました

変に捕まったら困るでしょ?

-そうですね

別のとこなら・・

-失礼します

-すいません

はい

-すいません、ちょっと通りすがりのものなんですけど

ええ

-お寺の方ですか?

そうです

-ちょっとお聞きしたいんですが

ええ

-こういうちっちゃい白い家をですね、背負って

ええ

-絵を描いて日本をまわりながら歩いてて

-移動生活みたいなことをしてるんですが

ええ

-で、土地を一晩とか借りながら自分のこのちっちゃい家の中で寝泊りしてるんですけど

-今このあたりで敷地を探してまして、一晩寝る

-このお寺の境内どこかひと隅貸していただけないかなっていう

いや、うちはお断りします

-あそうですか。わかりました

part6

<しみず花店 スタジオ・ムー>

まあ趣味としてジャズが好きで

自分も演奏してるんだけど

時々ジャムセッションで

– 楽器は?

今はクラリネットに落ち着いてるんですけども

最初はトランペットとかサックスもやってたんですけど

– ライブとかもここでされてたって聞きました

まあ2回ほどやったんですけど

– ここのスペースですか?

このスペースでやったんですけど

– だいぶぎゅうぎゅうな感じですか?

いやそうでもないです。特に宣伝はしてなかったんですけど

仲間で、今日は暇なので集まってみんなでやろうよってことでやりました

– バンドのメンバーというかその方は金沢の?

ほとんど金沢の人です

– 香りがすごく良いです

わたしたちわからないんです、慣れちゃって(笑)

でも学校通ってる子どもたちが

ここの前通ると「わーっ」て言って

家帰って、ここの前だけはいい匂いがするって

うどん屋さんの前はやっぱりお出汁のにおいがしたりとか、あるので

– においはいろいろ暮らしの中にありますよね

<石引Public>

『収容所のプルースト』が凄い面白いんですけど

収容所でみんな、もういつ死ぬかわかんないみたいな状況で1人、

プルーストの本もないんだけど

自分の覚えてる内容で講義をし始めるんですけど

– 収容所の中でですか?

中です

プルーストの話の内容は貴族たちのダンス会とか、別になんともない話もいっぱい出てくるんですけど

とにかく現実の生きるか死ぬかわかんないみたいな時に

そういう話を、毎晩毎晩続きがあるっていうのを期待して聞いていくことが

その人たちの生きる望みになっていって、続きはまた明日とか言って

その講義ノートを、生還した人が自分でつけてたやつを翻訳した本です

– このお店はいつからやってるんですか

このお店はそんなに歴史は無いんです

2016年の夏です

– 砂原さんは金沢の人ですか?

そうです。もともと金沢で、大学で東京に出て働いて

そしてこっちに戻って来たんですけど

それで本屋をやったるぞって思ったんですけど

ぜんぜん知らないんで、業界も。でもやりたいから

アルバイトで、でっかい本屋とかあるじゃないですか

ああいうところに面接行っても落ちたりとかして

もうどうしようもないから

街の書店みたいなところ

本屋さんを金沢で探したら

ほんと2、3店舗しかないんですよ、街の本屋で

でもそういうところで1軒だけやさしいおじさんがいて

お金いらないから働かせてくれって言ったら

そしたら「そんなの困る」って言われて。超良い人すぎて

それで、いろいろ教えてあげるよって言ってくれて

いろいろ教えてもらったんですけど

結局取次とか通せなくって。というのも、そういうのもトライして

東京とかにも小取次みたいな、

フランチャイズに入れば取次と契約できるというのがあって

それで一回契約して

店舗も別のところで借りて

もう店をやるってなった時に

日販さんが現場見に来て「これだめや」っていって

契約が破棄されてしまって

– ここですか?

ここじゃなくてまた別のところで。わたしが

それで、取り次ぎはやっぱ無理やなってことになって

方法をいろいろ考えたりとかいろんな人に聞いたりとかして

直取引っていうのがあるから

出版社で、ミシマ社とかタバブックスとか、夕書房さんもたぶん直取引やってると思うんですけど

<石引温泉 亀の湯>

20軒しかないんです、金沢

– 公衆浴場がですか?

はい。スーパー銭湯は多くなってきてますよね

これはやっぱり、結局建物の構造の規制があるのと

それから営業する時の規制もあるので

そういうことを考えると、まあどっちかっていうと衰退してます

実際にはレジャーの方のスーパー銭湯の方が多くなってます

– 銭湯は着替えるところと浴室の間あいだがガラスで仕切られてますよね

そうそう。あれは昔の基準です。昔は今みたいな監視カメラとか無いですよね

スーパー銭湯なんかは監視カメラついてるけど

我々のところは監視カメラついてないので、昔は全部中がみえるようにね

あいだはぜんぶガラス張りっていうルールになってるんです

それでそういう構造にしちゃうと、結局自由度ききませんよね、何も

昔は身体をきれいにするのが目的だったんですけど

今はどちらかというと家にみんなお風呂があるし、レジャーで来られるので

そうなるとお風呂入って例えば食事してっていうことになると、我々のところはそういうことができないので

やっぱりスーパー銭湯の方ってことになっちゃうんですね

基本的には、昔はあんまり塩素なんか入れなかったんですね

それで実際には温度でやってました

温度を上げていくと、細菌死んでしまいますので

だいたい42℃くらいの温度にしてます

塩素はできるだけ少なくしてる

スーパー銭湯はレジャー施設ですから

昔の我々が入ってたような温度にすると

お客さんは熱いって言うと思います

だからぬるくしてあるんですけど

ただスーパー銭湯くらいのぬるい温度にするとね

38℃とか39℃というのは

細菌培養してるようなもんですよね

だから我々のところは塩素少ないけど

毎日お湯を替えていると。全部掃除をして

part5

<平野屋>

ご主人が始められたお店ですか?

いえいえ、私で3代目です

-この商店街、皆さん三代目とか..

そうだねえ。やっぱりお城の前で、この通りっちゅうもんは昔から豆腐屋さんやら向かいの薬屋さんやらは、江戸時代の寛永やら

うちらまだ明治やさけえ、ほんでも100年以上は経っとるけども

おまんじゅう屋さん、いま四十何軒しかおらんけども

わしら学校出て商売継いだ時は百二十軒から金沢にはおったね

昭和40年になるかならんかの時は百二十軒あった

いま3分の1やわね

ほんでもこんな忙しくならんということは、そんだけおまんじゅうとかお餅を食べんようになったちゅうことやわね

食べもんが変わったちゅうか、こんだけケーキ屋さんとか色んなもんがでてきて

昔はやっぱり餅っていうものは、今はお正月の餅しか注文ないけど

昔は今みたいな時でも毎日こうしてお米持ってきて

これひとつ。ひとつってのは二升やけども

これでお餅ついてくださいっちゅうて、そんなもんがいっぱいあったもんやけど

こんだけ平生からお餅を食べんようになったちゅうことやね。食生活が変わってしもうて

ちょうどそういうころ田植えしとったもんやさかい

機械なんかあんまりないさけえ、たくさんの人が田植えしとる

そういうときにおやつとかおまんじゅう持っていくんや。田んぼへ

それがだんだんお寿司に変わったり

今じゃ機械になったら、あんまりそういうことしとらんもんね。コンビニでなんでも買ってきて

昔は田んぼに配達に行ったもんや

で、田んぼって言ってもいっぱい田植えしとってどの田んぼかわからんだわね

<ひがし洋傘店>

ここで傘張っとった。おばあちゃんの実家が、傘の骨をつくっとったんや

ほんで、うちに女の子おるからどうやけえっちゅうてお嫁に来た

大正や。大正9年にうちのおばあちゃん生まれて

大正時代にもう傘張りをしてたのよ

傘張りだったんです

それが和傘がだんだん駄目になったので、洋傘に変わったんです

-ここで傘張ってたんですか?

張ってたんです。柿渋も作ったし

和傘張る糊も全部手作りで

わたし小さい時見てた。子供の頃やから

小さいときにここに養女に来とるから、見てるんやそれを

渋柿の青い小さいときに採って、それを潰して踏んで、それで柿渋を作って

穴蔵みたいなところに1年分柿渋入れて

糊はわらび粉でつくってたよ

わからないでしょう(笑)

糊をこうして炊いてつくってたんですよ

柿渋はお洋服につくと取れないでね、気いつけなさいよとかって言われてた

それでね、油引いて干すとこがないから

向かいの福光屋さんのうしろに空き地があったの

そこをお借りして、傘を干して

雨が降ると一家総出で傘片付けに行かんなんのよ

いま福光屋さんの蔵になってる、あすこなんですけど

-金沢雨が多いから

昔はねえ、和傘で

いつも私のいとこのうちが傘の骨作ってて

不思議やねえ、あんな傘の骨を作ってて

子供は9人、親とで11人食べていけたんやねえ言うて

<JO-HOUSE>

お店自体は1972年オープンなんですけど

この場所になったのは2004年です

もともとJO-HOUSEはうちの奥さんのお父さんがやってたんですよ

JO-HOUSE30周年の時に、僕と夫婦で代替わりして継ぎました

昔から美大生とか音楽好きな人のたまり場でした

Jazzが流れて、でフォークの人がライブしたりとか

-高田渡のポスターがありましたね

そう高田渡さんと、西岡恭蔵さん、あと加川良さん、友部さん、大塚まさじさんは

ルーティンでずっと毎年やってもらってて。ライブを

今は毎年やってるのは友部さんだけなんですけど

-友部さん毎年来てるんですか?

毎年2月か3月にやってますね。友部正人さん

part4

<千取寿し>

-このお店って、いつから始められたんですか?

ええとね、昭和28年。わたしは二代目です

こないだおったのは三代目です

先代の初代の方が始められた時はどういったきっかけで始められたんですか?

先代の28年の時はね

やっぱあの時はねもう戦後ですからね

いろいろとそんなに職業もかちっと決まって、これがいいというようなところではなくて

みなさんね大変な時ですから

まあ最初は鮨屋じゃなかったんですよ

料理兼、洋食兼というようなね

そういうような感じでやっとったんですけど

やっぱりね、だんだん

わたしは最近思うのは

本物をみなさん知らなくなった

鮪(マグロ)の旬の時に鮪をお出しすると

この鮪ちょっと酸味ありますねと、こう言われちゃう

鮪っちゅうもんは、本鮪は酸味があってちょっと脂が薄いんですよ

と、こう聞かしても

ちょっと理解に苦しむ人がものすごく多くなった

なぜかっちゅうとみなさんスーパーとかいろんなところで地域の養殖鮪を食べてるでしょ

だいたい80%はみんなそうですよ

だからそれに関連してこの地域の旬のものが

説明しても納得されない

やっぱりいつも食べてるものの方が鮪は美味しいとされてる

脂があったり

本当に好きな方には電話かけて今日入ってますから来て下さい、言うと

ああそっか入ったかやっと、待っとったよ、というようなお客さんが少ない

そうすると本物のほうが我々が何かみなさんにごまかして売っとるような感じになるんですよ

<片岡薬局>

これが石引びっきぃに載せた資料です

その時には1860年て書いてありますけど

明治頃にはもうやってたらしいです

じゃあもう片岡家はずっとここでご商売されてる?

そうですそうです

まあ最初は本当のこのOTCっていって普通の薬しかやってなかったの

平成6年から薬局調剤っていう処方箋をやるようになった

だから平成6年って言った方がいいのかもしれない

それまではこういう薬ばっかり

あともっともっと前になると

薬局で風邪薬とかって調合してつくることができてたんですね

決まってるんです。決まった処方があって

それはつくってもいいですよという許可をもらって

そんなのを作って。そんなこともしてたんですけど

<吉野薬局>

実質ほんとうの薬局やったのは二代目ですけどね。医療関係は三代目です

初代の方は何をされてたんですか?

今じゃ大手に合併されたんですけども

大手の卸し。卸の、昔でいうと番頭さんなんですか

そういうのをやってたんですよね

わたしの父を薬剤師にして

金大(金沢大学付属病院)の前の前進の金沢医専ていうのが一番最初にできたんですけど

それがここにできるから、まあ薬剤師としてやったら

場所がいいだろうといってここでやらされた

やらされたって言ったら怒られますどね、父には

そういう話になってますね

昔はいい時があったみたいですけどね。まあ保険制度になって

それで今のように処方箋が出た時はいいですけど

今分業になって処方箋がどんどん出てるからいいんですけど

当時はそんなことはなかったですから

法律がかわって医薬分業になると言われたんですけど

なんていうんですかね、特別条項がついて

医師の管理のもとでは例えば看護師さんとか一般の方でも

一般て、(医師の)奥さんでも調剤してもいいという条件がついたために

日本は先進国の中でも最も遅れて分業になったところなんですよね

初代の金沢市の石川県の薬剤師会の会長に聞いたら

厚生省のまえで筵の旗を振ったという。本当かどうか知らないですけど

医薬分業を推進するべきだっていう運動を一所懸命やったっていうのは聞いたことありますね

このへん見たらわかると思うんですけど

当時13軒くらい薬局があって、今じゃまともに残ってるのは2軒です

わたしともう1軒片岡薬局さんていうその2軒だけで

もうあとは全部新しい薬局です。いっぱいできてますけど

全部調剤専門です

うちの父はそれから医薬分業にならなかったんで

実質法的にはしましょうって話になったんですけどね。形上だけだったんで

いわゆる一般のお化粧品とか家庭雑貨なんかも置くようにしてやったっていうのが本音みたいですよ

ネットの社会とか色々なことによって

自由化の解禁なんかによって

法律的には買えないものもありますけど

簡単に薬でもネットで買えるような時代が来てますから

結局かかりつけというか、地元に密着した薬局を目指していかないとだめだというふうに思っていますけどね

<SEED Graphic Space 시지스

最初はお金を稼ぐためにこの会社を始めました。

デザインが世界を変えて、人々の認識を新たにしたく、誇りを持って始めました。

しかし、今は色んな事があり、うまくいかないこともあります。

昔は今より良かったのです。

最近は過当競争でクオリティーより価格で競争することになっている。

仕事としてはパンフレットやリーフレット、広告物をつくっています。

屋外広告や編集、グラフィックデザインも合わせて全部やっています。

part2

<小松屋>

昭和24年やったか26年やったか
なんかその頃です

お母さんが(お店を)始められたんですか

いやいや
主人の父ですね
お爺さんですね

じゃあ二代目?

主人は30年前に亡くなってるので
三代目になるのかな

ここで石引の市電が
ちょうどここで終わりで
ここから引き込んで
もうちょっと行ったところが
電車の乗るところだったんです
うちのお隣のところまでが道が広くて
あとは狭かったんです
ここが終点で
ここから山って言ったら悪いけど
ここから奥の人はここで電車降りて
こんど国鉄のバスに乗り換えて
行ってるんです
昔は
それでここへ
朝みんなお弁当にご飯とちょっとだけおかずを入れて
うちへ来て
金時豆やなんやらを詰めて
持って帰ったという
学校なり会社へ行かれたという話も
わたしは知らないんですよ
わたしは嫁に来た人間ですから

じゃあそのご主人のお父さまがされてた時には、割とみなさんの台所みたいな

そう惣菜屋さんというかんじで
惣菜よりもギフト関係に力を入れだしたのが
まあ主人と父の後半ですね

そのあとから結局スーパーが出だしたでしょう
それでもうスーパーと対抗してやってもしょうがないから
もうギフト専門の方に
細かいものは全部切ってっていう感じ

これはふぐの粕漬けと、これはぬか漬け
福井なんかは鯖のへしこというぬか漬けありますでしょう
金沢はフグとニシンとイワシがぬか漬けで
粕漬けだけがフグがあるんです

<和洋酒たかはし>

四代か。三代か

足軽しとった人が八百屋したっちゅうんやろ

武士のあれを、無くなって

そんで八百屋をして、ね

– 足軽をしていた人が八百屋に…?

もう武士が無くなって

そうそう

– で八百屋になった

八百屋

それで前からもうずっと

その時代はお酒はどうかわからんけど

早い時代からお酒も一緒にしとったんやけど

八百屋が主たるもんね。果物とか

でもスーパーができ始めたもんで、お酒に切り替えて

姑がスーパーが嫌いって

言われて

スーパーに入るのは絶対いやっちゅうて

個人でって言ってずっとそのかんじでしてる

電車のあるときはねほんとに

大学のお見舞いのお客がすっごく

電車着くたびに盛り籠がパッと売れたけど

このごろほらいろいろと病院内に持ち込みダメとかね

あんなんなって

売れなくなったのもあるしね

– ここの病院が特に厳しいんですか

いや、どこでもです

国立でもやっぱ一緒ですね

42年に電車がなくなったから

そのときもうすでに

ないっちゅうことやね

前からなくなってると思う

先生にお礼にウィスキーとか、よくでたよ

<コウダ>

わたしで三代目やね

わたしのお爺ちゃんから

直してっていうのも割とあるね

寸法直してって

着物をつくりますって人はおらんけど

袖の丈を直してとか

振袖の袖を短くしてとか

お婆ちゃんの着物やけど

ここが短いもんで

昔の人小さいから

これをもっと出せるだけ出してみたいな

そんなんとかもあるし

– 着物のお直しができるってなかなか

普通の人できんからね

わたしができるわけじゃないけど

うちの母は簡単なことならできるけど

やっぱり袖ぜんぶ外して直してもらったりは

ほんとに仕立屋さんじゃないどできんし

昨日もひとつ振袖短くしてってやつ

納めてきたし

振袖つくってもらえたら一番いいんやけども

まあお直しでもって

(振袖を) 作ってっていうお客さんは全然いないですか

いやいないことない

こないだもやっぱり

したいっていうお客さんおって

でも振袖は今年なかったね

つくるっていう人はない

うちは今ここに振袖っていうのは置いてないけど

お客さんの振袖欲しいわっていう人おったら

金沢に問屋団地ってあるやん

あそこの問屋さん行けば

呉服の問屋さん行けばいろんな振袖あるから

ちょっと貸してって借りてきて

お客さんに見せる

買い取ってしまうとそれが売れんかったらもう在庫に残ってしまうわけやから

うちらもう振袖みたいな特殊なもんは

もう見せて欲しいって言われたら

問屋さんから持ってきてお客さんに見せるみたいな

そんなんで

品物は置いてありません

<三花嶺>

お茶は嗜好品ですから自分なりに楽しみながら頂くのがいいと、私は思います。

ここは誰もが気軽に来てお茶を一杯飲んで帰れるところですね。

part1

<福光屋>

このお店がオープンしたのが2003年なので

21世紀美術館の1年前なんですけども

日本酒需要の低迷というものが何十年も続いていまして

だけどアミノ酸が豊富だし

旨味成分のおかげで

お料理とも非常に合うし、ワインとも同じような醸造酒で

日本が誇るべきお米のお酒ということで

女性をターゲットに切り替えてマーケティングをはじめて

その一環がこのお店なんですね

置いてあるものも少し女性を意識した作家さんの器だとか

ラベルにしてもちょっと女性が買っても違和感のないお洒落なものだったりとか

ということで、いまこのお店は観光客が多いんですけれども

お化粧品をつくったり

発酵技術ですね、お米と発酵のかけ算によって生まれたものをいろいろ

スイーツもいろいろつくっています

伝統というものは革新があるからこそ続いていく

福光屋も革新を続けているからこそ、その時代時代に合ったものをつくって

地元の方にも認められて393年続いているという

そういう家訓は大事にしながらやっていますね

<田矢靴店>

わたしで三代目

大正九年だから。こういう下駄からきたので

これがHush Puppiesの靴がメイン

あの竪町の店。Hush Puppies

あそこはうちでやってるんです

このワンちゃんね

<エレガンスフワ >

このお店を一言で、どんなお店ですか?

普段着の店

-めっちゃおしゃれな普段着じゃないですか

お洒落な普段着?

主人が二代目で、わたし三代目になるのかな

主人亡くなったもんで。そのまんま継いでます

母が一代目で主人が二代目で、わたし三代目になるんだねやっぱりね

やめたいなぁって(笑)

ご主人もこういうレディース専門店を

そうですね

まぁずっとそのまま継いできてるんじゃない?

商売好きなんやて二人とも

でもわたし嫌いや

あんまり好きじゃなかった

ご主人のお母様が始められて

そうですね

わりとレディース中心の?

あの時分は紳士物もありましたし子ども物もありました

わたし昭和42年に嫁に来たときには

子ども、紳士、婦人服と

生地もやってた。お仕立ても

だんだん削っていったんじゃないの

でも二人ともほんと商売大好きだったわ

じゃあ最初からお洋服メインで

そうです洋服メインでしたね

そしてだんだん鏡子さんのテイストが入って..

うーん。あんまり主張性無いから

でもねスタッフさんも

そうねんて。ずっと30年以上居るんだよ二人。三人で35年ほどかな

ずーっと。だからうちの主人も亡くなる時に三人でやってくれって

せめて三年。だったけど

守ってやってる

お客様のおかげかもしれんね。そんな気がしますけどね

奥のあの写真がご主人ですか

そうそう。いい男やろ(笑)

ただ地域のこといろいろ知ってるからあの人は

消防をしてて

俳句の

ぜんぶ長までいって

することなくなったんよ。だから死んだんやわ(笑)

消防の金沢市の団長してて

それから石川県の俳文学協会の会長して

そんで亡くなった

地元で頑張った

石引のここも結構いろんなことしてきたよ

わたしは黙って店におったけど

好きやったんだね。いろいろ

死ぬのが残念やったかもしれんね

やりのこしたことあったかもしれない。わたしわからないけど

たぶんそうやったと思う

石引もっと良くしたかったんじゃないかな

もう亡くなられてからだいぶ経つんですか

丸3年過ぎて4年目かな

愛想ないっちゃ愛想ないけど、まあまあ三人でやってますわ

喋りながらやかましく

– 仲良し三人組

そうやねみんな同じような歳やからね

やっていけると思います

まあどこまでやっていけるかやってみます

試してみます

<高砂屋>

金沢ね芸所ですし

美術的なものと

わたしはお菓子はやっぱ文化とつながらないと

お饅頭っていう総合的な

お餅とかお饅頭とかって総合的じゃなしに

ひとつの銘菓っていうのは銘があるから銘菓なんです

銘と一緒に楽しんで頂く

文化とともに楽しんで頂くっていう

それがわたしは金沢の文化の深さだと思います

今日送るんです

御煎餅なんです

御煎餅って、餅米の御煎餅で

上にお砂糖

要するに型染めですね友禅でいう

ですから型をね

たとえばこれですと一、二、三枚ね

これですと一、二、三、四枚

これと一緒ですね

これ一、二、三、

これはぼかしてますけどね

こういうふうにして型染めの型つくって、こうお砂糖すり込むんです

<中華食材 龍一>

買おう これ1個ください

ありがとうございます

150円です

温めれば食べられるんですか

はい。そのままでも大丈夫です

これスプーンがついてますので

– あ、これスプーンなんだ

自宅でえーなんだろう

自宅で

本格中華を(笑)

つくってください

part 3

<niginigi>

niginigiは「おにぎりにぎにぎ」もあるんですけど

農耕の神様で瓊瓊杵尊っていう神様がいてそこからもちょこっと、かけてというか。

あと「にぎわう」のにぎにぎ

<chomsky>

はい。「ノームチョムスキー」からとりました

もともと僕がいたコーヒー屋さんが県庁の方にある

チャペックっていうコーヒー屋さんで

こっちのお店作るときに、人名シリーズでいこうかなと

人名シリーズで、Cの字

厳密にいうとチェコ語のシーなので、Cじゃないみたいなんですけど

Cの字ひと文字もらってもう少し新しい人物でっていうのでチョムスキー

の名前もらったというような経緯があります

<陶作家 平井悠一/陶工房つばめ>

陶芸は、自分はやり始めて8年目ぐらいになります

陶庵ってところで働き始めて

5年間そこで。陶芸教室なんですけど

そこで働いて、3年前辞めて

-今日午前中陶芸教室されてたって聞いて、何人ぐらいの方が

教室ががっつりメインでもないので

まだ、今のところ三人きてます

午前中1人ですね

<STRAWBERRY CONES>

-いつからこの仕事をされてるんですか?

この仕事自体は、たぶんもう20年経ってます

この店できてそんなに何年も経ってない頃からここで働いています

-このお店を一言で紹介すると

むずかしいなあ

一言っていうのはどの程度の一言ですか?

他みんなどんなこと言ってるんですか?

-「常連さんがくつろげるお店」だとか

-「履きやすい靴」とか

田矢さんですか?それ

-田矢さんです

むずかしいなあ

<荒間石油>

-この店はずっと2人でされてるんですか?

昔はもっと従業員おったんだけどね

暇になったらこんなようなもんです(笑)

やっぱ根本的に考え方変えていかなあかん

だから、オカダ・カズチカが強いんか

棚橋が強いんか

どっちがチャンピオンなんや

あ、オカダがチャンピオンなんや。いま

知らんか(笑)

いまおいくつなんですか?

-いま29です。今年30になります

でも30ならまだやりなおせる

やっぱね30前から大体筋トレしてれば絶対ね

新日本プロレスに入れる(笑)

美大生の方にはみんな言うねん僕

いくつ?って言ったら、十九とか二十歳とか

いまからでもやりなおせる

大丈夫や!

中邑を見よ

ニュージャージー州で頑張っとるがいね

<釜山現代美術館>

この美術館が設立された経緯を教えてください

まず、釜山ビエンナーレを開催する会場が必要だという議論がありました。

今ある市立美術館以外の空間が必要だということにみなさんも同意して

海雲台(ヘウンデ)エリアではなく、他のエリアに美術館を建設しようということになりました。

新しい美術館は、釜山ビエンナーレの実施以外に美術館としての役割を果たすことを期待して、新たな釜山市立の美術館を建設することにしました。

この美術館は現代美術館なのですが、ここではビエンナーレの実施だけではなく、美術館の役割を果たすこと、これまでの美術館よりは同時代の美術や、実験的で新しい美術、未来に関する考察などを含めようとしました。

特に自然環境問題、またニューメディアとテクノロジー、科学の関係。

芸術と市民が出会って良い関係を構築できるような美術館にしたという考え方です。

これからは地域と世界をつなげ、海外とのネットワークをつくり、未来につながる環境問題、過去と現在の問題を芸術を通して反省し、将来どのように芸術として結びつけられるか。

新しい未来に向けた答えを芸術を通して、提示する準備をしています。

今、みなさんから多くの関心を示して頂いています。これからも新しい試みや実験的な試みを美術館という空間で市民と一緒にやっていきたいと思います。

<加賀友禅うえだ>

この赤い箱全部加賀友禅なんです

ある時は100枚から持ってた

でもやっぱり今じゃ制作してなくて、必要な時だけに

やっぱり何しとってもその時代性を汲み取っていかないと難しいかな

やっぱり心が通じるっちゅうことが大事かな

だから福井の振袖のお客さんなんかのときも

子供さんの七五三の時の着物作っていただいて

1枚欲しいって言われて、土曜日の午前中わたし

五、六千円ぐらいの帯揚げ一本持って

福井まで高速走って持っていってきたの

だから、商売っちゅうのは損得考えとったらできない

それが、後にこうしてつながっていくのよね

昔、僕の弟からひいおばあちゃんまで4世代で住んでいたころの実家は、祖母が民生員をやっていることもあり客が多かったのですが、茶の間と呼ばれていた部屋は親戚以外の客を入れることはほとんどなかったように思います。僕にとってそこは半ばおおやけの場所として記憶(僕が茶の間を思い出すとき、当時の身長よりもずっと高い位置から、みんなが掘りごたつに座っているのを見下ろすような形で思い出されるのですが、これは多分、のちにみた写真か何かの視点だと思います)されていて、家の中なのに心地よい緊張感があり、僕にとってそこは学校の教室とすこし似ている共同の場だったように思います。

地図は自分と世界の境界線上に現れる

車は早いけど、なにかを逃している。歩くことのなかには明らかに時速60キロメートルとは違うはやさがある、