ワークショップをやってるときに、ボランティアで手伝ってくれてるおばちゃんが女の子の参加者に対して「女の子なんだから、」という言い方をしていて、それは言っちゃいけないよなあと思いつつ自分もうまく注意できなかったり、今日3331でワークショップを一緒にやったスタッフが、子供と一緒にいる保護者を、子供とどういう関係かわからないのに女の人だからという理由だけでお母さんとか読んでしまって、他に呼び方がないものかという話を後でしていて、女の子だから○○でしょうとか、一緒にいるっていうだけで保護者の人をお母さんかもわからないのにお母さんって呼ばないとか、そういう細かい言動や態度から伝わること、そういうスタッフの挙動のほうが、ワークショップで家を作りましょうとか、絵を描きましょうとか、そういうことよりもはるかに大きなことが子供達に伝わるのかもしれない。ワークショップにおいて一番大事にするべきなのはそういうことで、やる内容は家を作ろうでも絵を描こうでもろうそくを作ろうでも石鹸を作ろうでもなんでもよいのかもしれない。ただその工程や募集の過程の中でスタッフが人間に対してどういうスタンスを取るべきかということこそをデザインするべきなのかもしれない。

今の季節、セミの幼虫が歩いているのをよく見ますね。

セミの幼虫ってどんなやつかわかりますか?わかりますよね。茶色くて、目がくりっとしているやつです。ゆっくりとしか動けないので、昼だと取りに喰われるから夜に地表に出てきて羽化するんですが・・

小さい時、セミの幼虫をよく捕まえて無事に羽化ができるようにいろいろやってあげていました。そういうことが良いことなのかどうかはわかりませんが、今でも反射的に、人に踏まれそうなところを歩いてるセミの幼虫を見つけたら、つい拾って人目のつかない草地に話しています。もちろん羽化できる木があるようなところに。

映画新聞記者を見た。全体に「ペンタゴンペーパーズ(邦題)」を思い出した。印刷機が動く様子を終盤に持ってくる感じとか、演出も似ている。ペンタゴンペーパーズは50年前の話だけど、これは現行の政権のもとでの新聞記者と官僚の葛藤を描いている。ペンタゴンペーパーズは、「運命の瞬間」のときは割と軽い感じの演出で描かれていたけど、この映画は全体に重たい演出だった。全体的にずっと重たい感じ、という意味では単調だったけど、内閣調査室のシーンの青い光の感じと、自殺した官僚の神崎さんの家の中の赤い色味というか、自然な色味が対照的で、その行き来はスリリングで面白かった。そして終わり方がペンタゴンペーパーズと違った。答えを出していなかった。つまり「立派な人間」とは「かっこいい」とはなんなのか、というのは映画の中で、それとなく描かれているけど、その勇気ある決断をした松坂桃李演じる官僚が、その後ハッピーエンドを迎えるようには描かれていない。わからない。唐突に終わる。ボールが突然こちら側に渡される感じ。それが現代の問題を扱う映画らしいというか、その決断がどんな帰結をもたらすのかまでは描いていない。原案があるらしいので、それを読んでみたいと思った。その終わり方が気になる。

主演の女優の方がとても良かった。最高だった。神崎の部屋で松坂桃李相手に言った「私たち、このままでいいんですか?」というセリフ、これがこの作品全体を象徴している。こちら側に指を指されるような感じ。「私たち」には、観客の側も含まれている。あと、多田さんという調査室のボスから卑怯にも匿名でかかってきた電話、しかも内容は「君のお父さんの記事、本当は誤報じゃなかったんだ」というだけの、ただの嫌がらせでしかない者に対して、これはむかつく!!さあ、どう返す?と観客の誰もが思ったであろう場面で、主役の記者が返した「あの、わざわざありがとうございます。という台詞は最高だった。誰よりも自分を信じ、疑えという父の言葉を背負って生きている人間と、自分の体と現政権とを一体化させて見事な思考停止に陥っている多田との、経験値と格の違いをたった十数文字で見せられて痺れた。

しかし、これがもしかしたら一番大事なのかもしれないけど、この映画は普通にエンターテイメントというか、楽しめる映画として見た。主人公二人の心情もよく描かれていて理解できたし、何回か泣いた。面白かった。武田砂鉄さんだったか、誰かも言っていたけど、この映画が「政権批判」みたいな感じでメディアに取り上げられることがあるらしいけど、それはちょっと神経症だ。普通に楽しめばいいのに、わざわざ自分の時間を割いて目くじら立てるような人間がいることに僕はリアリティがないけど、実際そういう神経症の人はいるんだろう。私のまわりには見当たらないけど。

ある作品を知ってしまったが故に、それまで長年うまくいっていた夫婦の間の意見の違い、好き嫌いの違い、価値観の違いが露呈し、知らなければそのままうまくいっていたかもしれない夫婦の仲を分断するようなことは、芸術作品にはあり得る。芸術は人を分断し得る。

平和の少女像は、制作というより生産されてきたものだということと、昔これそのものが美術館で展示中止になったわけではなく、模型が展示中止になった、ということから、企画者側に、なんらかの、表現の自由を問う以上の意図があったのでは。

脅迫のファックスに対して警察が警備を強化したり捜査をしなかったことがまず最大の問題なんだろう。その上で、この間書いたような、物事と距離をとること、そのうえで議論を促すようなこちら側の方法自体が、リベラルな態度であり、彼らから見たらそれ自体が偏った政治思想とあり、そこに腹を立てているんだろう。もちろん土台には乗ってこない。だからこちらの言葉で、議論を、などと呼びかけても。分断が埋まるようなことはない。

全部いっぺんに解決するのは無理なんだろう。俺は勉強して、韓国へ行き、一人の人間として発信する。それしかない。そうしていくしかない。一人ずつが。

あいちトリエンナーレの「表現の不自由展 その後」の「平和の少女像」の展示が神経症の人たちによる病的な反発と脅迫のせいで中止になった。(神経症という言い方は宮台真司にならっている)

そしてこれが一番大事なのだけど、その結果その展示を俺が見られなくなった。どうしてくれる。俺は10月に見に行こうと思っていたのに。

過去に検閲を受けたり展示中止になった作品を、経緯とともに展示し、なぜそうなったのかを考えるのがこの展示で、ある場所で展示できなかったものを(外で展示しようとするのではなくて)、美術館という美術を見に来る人のためにつくられた箱のなかで見せるっていうことを通して、検閲について考える。そういうプラットフォームのためにあるのが美術という方法なのだろうけど、それができない、そういうことを普段考えていないがために物事と距離が取れなくなってしまった人たちによって、距離をとって考えようとしている俺が邪魔されている。彼らは物事に対して近距離で直接向き合うことしかできなくなっている。彼らの中には「自分か相手」しかない。自分の中にバッファーがない。プラットフォームがない。その結果神経症に陥っている。その上名古屋市長も、なんか知らんけど、人気を取るチャンスだと思ったのか、ここぞとばかりに前に出て展示の中止を求めていた。

政治家も神経症の人たちに合わせて振舞って俺のことを邪魔している。とても辛い。唯一、愛知県知事の記者会見がすこしだけ救いだった。

名古屋市長には是非、元パリ市長ベルトラン・ドラノエの「リベルテに生きる」を読んでもらいたい。

しんどい。ニュースを見過ぎた。