「住む」を扱うことの難しさ。するではなくて、状態である、ということはポイントしにくいので。

日々の諸々に対して制作的態度を常にもつこと。まずはそのマインドをなんとかしないと、例えば移動をサブスプリクションにしたときに、それに流されるだけのものになってはいけない。

僕は一年半くらい前からつつじヶ丘という駅の近くでアトリエを借りているんですが、建売住宅がこの短い間にものすごく増えていて、なんというか、自分で考えるのが面倒だからもう出来てるところに住んじゃおう、みたいな考え方なんじゃないかと思ってしまって。それは住むということに対して受動的すぎるんじゃないかというか、そんな感じがしてまして。年金だけでは老後に平均2000万円足りなくなるみたいな報告書が話題になったとき、僕はすごく不安になってしまったんですが、老後のために貯金した方がいいかな、とかそういう思考モードに入らされちゃいまして、多くの人があのきとはそうだったと思いますが。その時にラジオで年金は「長生きリスク」にそなえる ためにあるという話をしていて、ショックを受けてしまいました。長生きリスクなんて・・すごい言葉だと思いませんか。人生は死ぬまでのカウントダウンに過ぎないと言われているみたいで、なんかラジオを聴いていて元気がなくなってきてしまって。同じような文脈で「将来はお金が足りなくなったときのために投資をしましょう」という話もしていて、僕は普段から色々なところに投資をしているつもりではあるんですけど、例えば添加物が入った食べ物は出来るだけ食べないようにするとか、たまに高い服を買うとか、将来の制作のためにプロジェクターとかカメラを買うとか。でもそれは将来買えなくなった時のために買う訳ではなくて、未来の自分がなにかを生み出すときに必要になるかもしれないからという、前向きな気持ちでやってるんですけど。服とかカメラとかは、そうやって生産的に考えられるんですけど、なぜか家は時間の単位が大き過ぎるからか、規模が大きいからかわかりませんけど後ろ向きになりがちなのかなと。自分は将来死んでいくんだから、それまでしのげればいいでしょっていう、ペシミズムがあるなという感じが。

住むことを扱うということは、とても抽象的で、みんなイメージしにくいし、なにかこうすれば幸せになれるみたいな世の共通の像はもう僕が生まれる前に壊れてしまったので、そういう像を失った人たちが、とりあえずここに住んどこうみたいな感じで建売住宅に住んじゃうのも無理はないのかなと思います。建売住宅を買ったという方がいたら、あとでぜひお話を聞きたいんですけど・・。「移住を生活する」などのプロジェクトは、住むこと自体を制作行為として行い、作品化するんですが、それは、いま話したような「生活することは引き算である。」っていう風潮に対抗するものにもなっているのかなと。

その気持ちをみんなと共有したほうが楽しいと思うので、僕は「村上家に泊まる」というワークショップを今年初めてやってみました。1日これをやるだけで、今までカフェなんかとは無縁に生きてきた人が一人でカフェに行くようになったりして、期間は1泊っていう短い間ですけど、効果は大きいのかなと。

「人の家を、自分が設計していいのか」家は自分の体の延長なのに、人に設計を頼むのはおかしな話だ。(吉阪さんの言葉らしい)

自分の家に釘一本打てないのは変な話じゃないか。住むことと家が離れている。建築のプランを作るには、一つ思考を飛躍させる必要がある。それは、人の住む家を俺が考えていいのかっていう問題。この壁は僕にとってはとても高くて、そこに理由を与えるために、個人的な営みでも、社会的なアクションになるというロジックを使い、そこから看板や経済の話に結び付けているけど、吉阪さんの言葉を読むと、その壁はやはり無視してはいけないというか、僕の方がまともなんじゃないかという気がしてくる。みんな、無自覚に人のものを作りすぎている。なんかテレビとかみてても思うんだけえど、もっと人に何かを作ったり影響を与えたりする奥ゆかしさみたいなものがない気がする。下品というか。

吉阪さんもそこになにかひっかかるものはなかったのかと思う。自邸のスケルトンインフィルみたいなものも、思想としてあるけど、作品の、途中で止める感じをどうにか形にしている。

個人のことが公共のものになることの話。本の話、美術館に収蔵された話、俺の黄金コースの話、間取りの話。砂場で遊んだり砂浜で像を作ったりするように場所を作る話。

フルッサーの投企の話と住居の話。

『我々は居住する動物である。巣に住むにしても、洞窟に住むにしても、テントに住むにしても。また、家屋に住むにしても、縦横に積み重ねられた箱型住宅に住むにしても、キャンピング・カーに住むにしても、橋の下に住むにしても。慣れた場所、通例の場所がなくては、我々は何も経験できないのである。慣れないもの、異例なものは雑音だらけで、慣れたもの、通例のものの中で処理されて初めて経験となる。~住所不定の彷徨者は何も経験せず、「あちこちと」回るにすぎない。~堅固で快適な家は、慣習の場所として雑音を受け止め、経験へと処理する能力を、もはや果たせなくなって居るように見える。~これは存在論的な問題である。今まで我々は、自分を個体であると思ってきた。つまり、人間はそれ以上細かく分けられない物で、空間と時間の中を動いて居るのだと思って来た。家は、そうした運動が集中される場所であった。家は~「現に立っているもの」であった。しかし「人間」という個体の運動は、ますます厳密になってゆく分析に服した。~人間は家を出て世界を経験し、経験したことを処理するために家に帰る。人間は世界を発見するために出かけ、自分を再発見するために帰ってくる。だが、人間は世界で自分を失い、家に帰って世界を失う。~我々が自分をインディヴィジュアル(分けられないもの)と考えることはもはやできない。それ以来、個人(インディヴィジュアル)の運動と、そのさい家が果たす役割について語ることは、もうできなくなったのである。だから、家を新しく投企しなければならない。新しい投企がなされるまでは、我々は家無しでしかない。』

という記述があり、これは知人が言っていた

『暇な時間に非生産的な(と一般にみなされる)行動をとって退屈を紛らわせている人は、人目を気にすることになる。つまり、一人前の大人がスマホでゲームしたりマンガを読んだりだらだらテレビを見たりするのは、あまり褒められた行為とは見なされないので、そうした人たちは人目が気にならないところでそうした行動に没頭する。あるいは、コメダコーヒーや図書館など文化的だとみなされるような場所に行く。

 退屈な人、退屈しのぎをしている人は、退屈していることに気付かされることを嫌う。人は誰しも「退屈そうだ」と思われたくないのである。「退屈そうな人」は「何も意味のあることができない人」であり「希望のない人」と同義なのだ。それが単なる退屈しのぎであっても、プレミアムな生活をしているだとか、勤勉だとか、社会に貢献しているとか、趣味を楽しんでいるスポーツマンか文化人であるといった、香りづけが必要なのである。』

に通じる。他にもこの本の「都市をデザインする」という章の中で「まず問われるのは、なぜ村ではなく都市を投企するのか、ということだ。~あらかじめ結論だけを言っておけば、村は観想のための空間を提供しないからである。第一印象とは違って、農耕文化の中で農耕に従事する農村生活は、都市文明が可能にする間暇を提供しないからである。」

「観想を提供する」ことと歩くこと

シチュアシオニスト

「この機関誌の編集規則は集団的編集である。個人によって書かれ、個人の署名のあるいくつかの記事も、われわれの同志全員に関係があり、その共同の探求の個別的側面と見なされなければならない。われわれは文学雑誌や美術雑誌のようなかたちで生き残ることには反対している。 『アンテルナシオナル・シチュアシオニスト』に発表されたすべてのテクストは、出典を明記しなくても、自由に転載、翻訳、翻案できる。」

自分をどこに位置づけるかという話。建築としてやってくれと言われて、一昨日TBSラジオでも吉阪さんと今和次郎の話を名前を出した。建築課題の話、建築をすることの壁の話、それを反転させるロジック、俺の黄金コースの話