ノマドランドを静岡のMOVIX清水で見た。エンディングの歌まで含めて体にズシンと響く映画だった。全体的に、主人公の気持ちわかるわあ、と感じるシーンがたくさん。知り合った人から与えられた部屋とベッドが全然落ち着かなかったりするところとか。
この生活には最後のさよならがない。いつも、またどこかで、と言って別れる。そして実際にまた出会う。だから、死んだ息子にも出会える気がする、というセリフ。素晴らしかった。
また詩の中で夏が生き続ける。という言葉。作品の中で老けずに、永遠に輝き続けるという言葉。自分の小説もそう思って書けばいいのだ。書いているときの想像力が全然足りてないじゃないかと思えた。これは大きい。言葉遊びではなくて、想像を先にすること。こまかく頭の中に描くこと。それが大事なのだ。言葉はその後についてくる。人と風景を作品の中に閉じ込めるように書く。
車中泊生活中に見られたのはボーナスだ。

自動販売機で麦茶を買おうと財布から小銭を取り出すときに指の隙間から100円玉が滑り落ちた。ちゃりんと地面に落ちた音は聞こえたのだけど姿を見失ってしまい、下を向いてきょろきょろしていたら、気がつけば小さな子供を抱えた女性が隣に立っている。なにか言っている。僕は奥田民生が流れる耳のイヤフォンを外した。
「すっごいあっちの方に転がっていきましたよ」
と女性の声が聞こえた。右の、食堂のようなスペースの方を指している。そちらでは、割烹着姿のおばちゃんが、腰をかがめて下を見ながらうろうしている。ああ、多分ぼくの小銭を探してくれてるんだなと思った。
「あ、そうですか」
と僕は女性に言って、そちらに歩いた。5秒後、「ありがとうございましたって言えばよかった」と思ったのだけどもう僕数メートル歩いてしまっていて、機会を逃した。女性はこちらを見ていた。割烹着姿のおばちゃんはすぐそこにいて、他の従業員にも「ころころ〜って、こっちの方に来たんだけどなあ」と説明してくれている。僕を含めて四人で地面を凝視するけど見つからない。一人は棚を動かしてくれた。
「ありがとうございます。見つからないので大丈夫です。」
と僕は三人にお礼を言った。
「五百円とか?」
とひとりのおばちゃんが笑いながら言う。
「いや、百円です」
「百円かあ」
「でも大丈夫です。ありがとうございました」
と言って僕はその場を去った。あの百円が見つかるのはいつになるんだろうかと考えている。もう今頃すでに誰かが見つけて拾っているか、年末の大掃除の時とか、それかこの道の駅が潰れて解体されるときに、業者が見つけるか。

車で何時間も走って三重県鈴鹿市の満喫の駐車場に止めて目の前の温泉に入って、いまかつやにいるが、体がまだこの街に受け入れられてない気がする。まだ魂がここに来てないというか。あるいは体のほうが受け入れてないというか。なんとなく居心地が悪い。街の通行人や店員の知らない人が、ものすごく知らない人のような感じがする。移住を生活するの中で敷地を借りて店に入ルノと全然、受け入れられてる感じが違う。この感覚は車ならではかもしれない。