道の駅すずなり。同じ人が毎日来てトイレに寄って帰って行ったり、毎日同じ時間に隣の家からお経が聞こえて、なんだか毎日が「再生」されてるみたいだ

スーパーは公共を体現する。人はスーパーによってつくられ、スーパーは人によって作られる。人それぞれの「地図」が違う。利用者何人かで一つのスーパーの地図づくりをしたらそれぞれ違うものができるだろうし、みんなの地図をたくさん重ねるほど現実のスーパーに近づいていくだろう

土曜日早朝ゴルフバッグを持って車に乗り込むお父さん

バーミヤン。一時間ほど前に、店員の人をレジの所で呼んでどこかに通されていった若い女の子が僕とほとんど同じタイミングで店から出てきて、バーミヤンの看板を携帯で撮影して自分の自転車に乗り込む前に携帯をいじっている。おそらくバイトの面接に来ていて、これからバーミヤンで働くことになったという旨を知人か友人にメールしたか SNS で公開したのだろうか

東京2020ってなんだよ。2021って言えや

自分の名前や活動を初対面の相手に一言言ったときに「あ、知ってます」と言われるのは、反射的に嬉しいと思ってしまうのだけど、「この人は僕の活動のどういうところまで知っているのか」を知る前に喜ぶのはよくないと思うので、嬉しいと思う感情にブレーキをかけるようにしているかもしれない。それは顔や名前を知っているだけで何か価値があると思い込んでしまうことに似ているから。選挙活動でひたすら自分の名前を連呼して回る選挙カーとか、投票日に誰に投票するかを投票所に掲示してある候補者のポスターをみて決めることにもつながることだから。

オリンピック開会式や閉会式に出たら、魂売ったと思われて友達に会えなくなるっていうのは行き過ぎではないのか?

職業芸術家は滅びるべきだという宮沢賢治の言葉はわかるし共感する分、自分がいまフルタイムアーティストであることが恥ずかしいと思っているとところがある。しかしまた同時に、それを誇らしくも思っている。人に仕事を聞かれたときにわざわざフルタイムアーティストと言ったりする。でも時々、まあバイトとかしながらやってますとか言うこともある。分裂している。自分の中に色々な人がいる。

富の湯は水風呂と風呂の温度差が大きいので、名古屋の炭の湯よりもひきしまった。温度差が大事らしい。

コンビニでミロが売られているのを見て、今まで足りていなかったのはミロだったのだと思った。