03051805

新宿南口にて全感覚祭主催の反戦集会に一時間だけ立った。今回の侵攻は日々、自分が無知であることへの呆れを生み続けていて朝ニュースを見るたびに落ち込んでしまうのでなにか足を動かしたかった。彼らが企画してくれたおかげでその行き場ができた。同じ心持ちの人は多かったのではないか。プラカードを掲げる皆の手はぎこちなくて、おそるおそる、という様子。僕も用意していったものを出せなかった。そこへステージから、熱狂はいらないという言葉やばらばらであることを通しての連帯という言葉が飛んできて体を少しだけ軽くしてくれた。すこし時間が経ってから、その場でのある種の「モード」に体が変わった感じがあり、掲げる手のためらいは減じた。久しぶりにデモ的なものに参加して、その場に集まったりカードを掲げることのエネルギーの大きさは全く馬鹿にできないと改めて思う。一つのイシューのもとに人が集まるということの、その戸惑いがもたらす思考の喚起力は馬鹿にできない。なぜ来たのか、居心地が良いとは言えないのになぜ立っているのか、何のためなのか、何かの役に立つのか、ただ自分のもやもやを消化したいだけではないか、仮にそうだとして、そもそも、もやもやを感じるのは何故なのか。立つことの戸惑いそれ自体が考えることを促す。

今回の侵攻について、それぞれの言い分や原因の議論をしはじめると色々なことがわからなくなるが、人がそこで殺されていること自体へのNOは絶対的に正しく、戦争は、立場など関係なく絶対悪だと、怒りを表すことはしなくてはいけない。まひとくんが言っていたことを噛み締める。「わからないけど考え続けていこう」とかいう前に、まずこの「ここに現れているもの」に対する反応をしなくてはいけない。そこに花が咲いていること自体に感動することと同じように、そこに殺しがあること自体に怒りをぶつけること。その心の動きと、それがなぜそこにあるのか、と考えることは分けた方がいいだろう。

Posted by satoshimurakami