近所のラーメン屋の大将と初めてちゃんと話をした/7月7日

アトリエの近くにラーメン屋があり、月に1度くらいのペースでたぶん3年以上通い続けているのだが、先日ついに、そこの大将と初めてちゃんと話をした。
この店で僕は毎回必ず「温かいつけ麺」の「醤油味」を頼んでいる。これがうますぎて他を選ぼうという気持ちにならなくて、「ラーメン」も頼んだことがない。記憶しているかぎり、他のものを頼んだことは一度だけ。同じく「温かいつけ麺」の「南蛮味」だけである。つけ麺には、醤油味と南蛮味の二種類あり、南蛮の方をそのとき初めて試したのだ。そしてそれは、自分にはすこし辛かった。その一度以外は全て同じものを頼んでいる。まず、これが前提である。
記念すべきその日はものすごく暑くて、しょっぱいもの食べたい、ああ、そうだあの味が食べたい…となり、つけ麺をキメることにし、アトリエを出た。たぶん、2ヶ月ぶりくらいだった。
店に入ると、お昼どきをすぎていたからか、他に客は一人だけだった。大将はカウンター席に座り、チャーシューをこまかく切る作業をしていた。
大将のカウンター作業はいつみても惚れ惚れしてしまう。大将自身はなかなかごつい見た目である。見知らぬ客に気安く話しかけそうな感じではない。常連と世間話をしているのはよく見かけるけど、その言葉遣いも江戸前というか、発語に覇気がある。ダミ声だし。細かいことは気にしねえ、という感じなのである。しかしカウンターに座っているときの大将は、その風貌からは想像しがたいほど、たいへんにこまやかな動作で几帳面な仕事に没頭している。ミリ単位で仕事をしているところも見たことがある。大袈裟に書いているのではない。ネギを一本、左手で持ちながら、普段はかけないメガネをかけて、包丁の刃元の部分で、ネギの表面を数ミリずつ削っていた。「うそだろ」と僕は思った。この細かすぎるほどの作業が、あの味を作り出しているのかと、心が震えた。
さて、僕が店に入るなり大将はこちらを一瞥し、「らっしゃい」と言って、すぐに目線を手元に戻した。僕は大将からふた席ほど離れたカウンターに座り、ほんの数秒逡巡した。なにしろ暑い。そして、ぼくは(たぶん)人生で初めて「温かいつけ麺」ではないものを頼んだのだ。
「冷たいつけ麺の、醤油をお願いします」
すると大将はにやりとして、こう言った。
「いま、あったかいつけ麺頼むのかなって、考えてたんだよ」
なんと大将は、ぼくがいつも「温かいつけ麺」を頼んでいることを覚えていたのだ。ぼくは天にも舞い上がるような気持ちである。
「いや、今日はちょっと暑いんでね…冷たい方を、試させてください」
「冷たい方も、うまいよ」
大将は厨房に入り、ぼくの前に二種類のつけ麺の出汁を置いた。醤油っぽい黒と、胡麻色のものだった。
「ごまのほう、けっこううまいと思うんだよな」
大将は自信たっぷりだった。そして、それはほんとうにうまかった。
うまいっす、うまいっす。これもうまいっすねえ。僕はもう泣きそうだった。
「うまいよな。やっぱ、自分が好きなもんしか作れねんだよ」
つけ麺の提供を終えると、大将はまたカウンターに座って作業を再開した。だけど、しばらくしてぼくの方に顔を向け
「お仕事は、物書きかなにかやってんですか?」
と聞いてきた。僕はまたもや衝撃を受けた。なんでわかるんだろう。自分の仕事が「物書き」だと言えるかどうかはともかく、さほど外れてはいない。
「こういう商売してるとさ、客の観察するのが好きなんだよ。どんな商売やってるか、とか。で、このあたりは音楽家もよくきてくれるんだけど…たぶん音楽家ではないよな、って思ってたんだよ。かと言って、雑誌のライターでもないだろうなって」
それで「物書き」という推測に至ったという。ぼくは自分の仕事を軽く説明した。そして、よくわかりましたね、と言った。
「ぜんぜん見当がはずれることもあるけどね。好きなんだよ」
大将がぼくの注文を覚えていたことだけで舞い上がっているのに、まさか仕事まで推測されていたとは、生きててよかったと、マジで思った。人は、こんなささやかなことでも自信を取り戻し、生きている意味を見出すことができる、すごい動物なのである。こんな奇跡が一度起こってくれれば、たとえそれが数分の出来事だったとしても、この先どんな困難が待ち構えていようと大丈夫だと思える、すごい動物なのである。
大将はまた「最近暑すぎるよな」という前振りの後で、こうも言った。
「毎日40度超えるような日が続いたら、俺は店休むよ。暑いと客も来ないから」
どうか地球温暖化よ、これ以上進まないでくれと僕は心の中で手を合わせて祈った。

Posted by satoshimurakami