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京王線、ドアの近くに立って本を読んでいたら駅についてドアが開き、ホームの人たちが電車に流れ込んでいるときに男が急な動作で電車から飛び出し、そのときホームから電車に乗ろうとしていたおばちゃんをかるく突き飛ばすような形になり(私は男の背中しか見えなかったのでぶつかったところを直に見たわけではないが)、おばちゃんが「ああ!」「いた!」と声をあげるも男はそのまま、本当に何もなかったかのように早足ですたすたとホームを歩いていき、おばちゃんも「いたた。腰うっちゃった」みたいな悪態をつきながら電車に乗ってきた。私はどうしたらいいかわからず、しかしおばちゃんとは目があった。おばちゃんはそのまま席に座った。
そして電車内は何事もなかったかのように元の時間に戻っていった。僕の前に立っていたサラリーマンふうの男も、ちらっと顔を上げてはいたし、なにか言いたげな目はしていたが、しかし僕と同じで結果的には立っていただけだ。そしてドア上のディスプレイには「収入が大きいと手取りが減る!?」というCM。これからの働き方、考えてみませんか、と女性がカメラに向かって呼びかける。なにか、とてつもないことが起きているような気がするのだが、そのことに気が付きにくいというか、全員が正気を失っているので、問題が問題にならない。そんな感じか。これでは、奇跡が起きても奇跡とは気が付かないだろう。

私はシミュレーションする。どう声をかければよかったのか。おばちゃんは倒れはしなかったが、もし倒れていたら私は駆け寄れていただろうか。駆け寄って、「大丈夫ですか? おい、ちょっとあんた!」とドラマの主人公のように振る舞えていただろうか。自信がない。
おばちゃんと目があったときに、大丈夫ですか?くらい声をかけてもよさそうなものだけど、私はそうできなかった。この東京の、平日の電車のせいなのか、空気の中に、自分をできるだけ目立たなくさせよう、できるだけあらゆることに無関心でいようという、そんな気持ちにさせる成分が高濃度で溶け込んでいるような気がする。大町ではこうはならない。おそらくインドネシアでもならないだろう。自分の言動、行動を抑制する装置のような、この成分はどこで精製されているのか。
部屋の中にいる象のことを誰も指摘しない感じ。空が緑色なのに誰もそれを指摘しない感じ。

このとき私の目が捉えていた文『存在の耐えられない軽さ』の「社会が豊かであれば、人びとは手を使って働かなくても精神的な活動に専心できる。大学はますます多くなっていき、大学生の数も多くなる。 大学生が卒業するためには、卒業論文のテーマを考え出さなければならない。この世にあるものすべてについて、研究論文を書くことさえできるので、テーマの数は多く、無限にある。 書かれた紙は記録保管所に積み上げられるが、その保管所は死者の祝日にさえ誰も来ないので墓地よりも寂しい。文化は生産過剰、活字の洪水、量の多さの中で消えていく。これがなぜ君のかつての祖国での一冊の禁書が、われわれの大学で次から次へと溢れ出てくる何十億 ものことばとは比較にならないくらい多くのことを意味しているかという理由なんだ」

電車の中で本を読む、というのは一つの抵抗運動と言える。

Posted by satoshimurakami