「丁寧」と「ワイルド」には重なる領域がある
友達の実家が森の中にあるログハウスの宿で、そこで提供される、近所でとれたきのこのスープとか庭で育てた野菜のサラダやハーブなどを使った夕食と朝食がものすごく美味しくて彩り豊かでおしゃれなので、その友達につい「丁寧な暮らし」で育てられたことが想像できる、みたいなことを言ってしまった。そしたら友達は「丁寧というよりも、ワイルドかな」と言っていて、ハッとした。丁寧さとワイルドさは、一見正反対のように見えるけど、言われてみるとたしかに紙一重というか、すごく近いかもしれない。二つの円が重なるベン図のように、重なる領域というものがある。その友達は「小さい時は森の中を走り回って遊んでいた」と言っているし、夕食で出されるきのこは森を歩いて採ってきているものだし、「野菜を育てている」というのも、「丁寧」と見ることもできるけど、一方ではすごく野生的な営みでもある。現代的ではない営み、と言ってもよい。私たちもときどき、友達が長野の家に泊まりにきているときなんかに、庭でとれたじゃがいもを調理して出したりすると「丁寧な暮らしだ」と言われたりするけどちょっと違和感があるのは、丁寧という言葉にどこか、現代的な暮らしの究極形態みたいなニュアンスを感じてしまっているからかもしれない。実は「丁寧」という言葉のイメージと正体はすごく離れてるんじゃないか。
今日も庭ででかいかぼちゃがひとつとれたけど、それは自分で「丁寧に」植えたわけじゃなくて、庭が土だから埋めときゃ分解されるだろうということで捨てた生ゴミに混じっていたかぼちゃの種がワイルドに勝手に発芽して成長して受粉して結実したものを収穫しただけで、こっちとしてはなにもやっていないのだけど、都心から来た人からすると、「庭でかぼちゃが育っている」というのは「ワイルド」というよりも「丁寧」として映るだろう。庭に生ゴミを埋めるという行為も「コンポスト」と言い換えれば「丁寧な暮らし」感がある。
私が千葉で進めている村上勉強堂も、ある意味では「丁寧な暮らし」と言えなくもない。土から壁をつくったり、井戸を掘ったり、落ち葉を発酵させて暖房にしたり、というのはすごく丁寧なんじゃないか。