01051313

3日の夜、母親と電話をしたときに、実家の猫イブが息を引き取ったという報せを受けた。2日の朝8時52分?に旅立ったという。お正月で、めでたい話でもないので、この報せは次に僕が実家に帰った時にでも話そうと思っていたという。
前日の夜から調子が悪くなり、家族3人で夜通しじっと見守った上でのことだったと聞いて、ほっとした。僕と涼ちゃんは、年末に会えていたので、最後に会えてよかったとも思った(僕たちが実家を出た翌日30日から体調が崩れていったという。猫はわかっていたのかもしれない)。ここ数ヶ月、あまり食べ物も食べず、骨と皮だけのような風貌でずっと頑張って生きていたので、最初に出てきた感想は
「よく頑張ったな」だった。(ほぼ同じころ、僕の車ファントムもエンジンがかからなくなり、さきほど車屋さんに見てもらったら、詳しく点検しないとわからないけど、エンジンがもうダメかもしれないと言われた。先月は電動丸鋸も故障した。僕のまわりで僕を支えてくれたいろいろなものたちにガタがきている。そういう時期なのかもしれない)

さて、僕と涼ちゃんはこの報せを受ける前の2日に、イブの話をしていた。「イブはがんばってるよねえ」と。そのとき、現実世界においてはイブはもうこの世にいなかった、ということになる。でも、僕と涼ちゃんがイブの話をしていたとき、僕の中にはたしかに、実家のこたつのなかで寝ているイブの光景が浮かんでいた。いまこの瞬間の、すこし離れた場所の光景として。つまり、報せを受けるまではイブは生きていた。僕においては、報せを受けた瞬間がイブが死んだ瞬間であり、涼ちゃんにおいては、僕からこの話を聞いた瞬間がイブが死んだ瞬間である。
情報は知らされた時に、もしくは気がついた時にはじめて現実のものになる。親しい人が亡くなったとき、思い出と現実というふたつの平行世界が現在という点で交わり、小説におけるマジックリアリズムのような、いるのにいない、いないけどいる気がしてしまう、という状態がやってくる。
しばらく会っていないけど大事な人と、しばらく会っていないうえ、すでにこの世にいない人。このふたつのありかたはまったく違うはずだが、離れて暮らす身としては、これらはかなり近い。遠くにいるひとのことを思い浮かべることと、すでに死んでいる人のことを思い浮かべることは、とても似たしかたで行われる。つまり、なにかここにいない存在を想うことにおいて(愛と言ってしまってもいいかもしれない)、現実にその存在がこの世にいるかどうかはあまり問題ではない可能性がある。逆に言えば、この世のすべての人間を「あいつはまだ生きている」と思わせることができれば、人は永遠に死なないのではないか。たとえば河原温は、このことに気がついたのではないか。
上記のことを踏まえれば、SNSなどで、実際にそれが起きた日とは別の日に、その出来事を投稿することで「タイムマシン」が作れる。つまり投稿者本人以外の全ての人に、そのSNS上での出来事の日付を信じ込ませることができれば。

Posted by satoshimurakami