03090023
ボードリヤール『消費社会の神話と構造』より
あらゆる伝統的芸術において象徴的・装飾的かつ二次的な役割を演じたモノは、二〇世紀に入ると道徳的・心理的価値の変動に応じて変化することをやめてしまった。人間の傍らで代理としての役割に甘んじるのではなく、空間分析(キュビスムなど)の自律的要素として非常に大きな意味をもちはじめたのである。そのために、モノは粉々に砕け散って、(色やかたちなどの)抽象的概念にまで解体された。ダダとシュルレアリスムにおいてパロディ的復活に成功したものの、抽象絵画の出現によって破壊され消え失せたかにみえたこれらのモノは、新形象派やポップ・アートにおいて、ふたたび自己のイメージと一致することになったようである。モノの現代的地位という問題が提起されるのはこの段階においてであり、しかも、この問いが否応なくわれわれにつきつけられるのは、モノが突如として芸術的形象の頂点にのし上がったためでもある。
(中略)
ポップ以前の全芸術は「奥底にひそむ」世界を見抜こうという態度の上に成り立っていたが、ポップは記号の内在的秩序に同化しようとしている。つまり、記号の產業的大量生產、環境全体の人為的で人工的な性格、モノの新しい秩序の膨張しきった飽和状態、 ならびにその教養化された抽象作用に同化しようとしているといってもよいだろう
ポップはモノのこの全面的世俗化の「実現」に成功しているだろうか。過去のあらゆる絵画の魅力であった「内面の輝き」が少しも残らないほど徹底した外在性を特徴とする新しい環境の「実現」に成功しているだろうか。(中略)
ポップが意味するものは、遠近法とイメージによる喚起作用の終焉、証言としての芸術の終焉、創造的行為の終焉、そして重要なことだが、芸術による世界の転覆と呪いの終焉なのだ。ポップは「文明」世界に含まれるだけでなく、この世界に全面的に組みこまれることをめざしている。文化全体から華やかさ(そして文化の基盤さえも)を追放しようという、超越的で気違いじみた野望がそこには存在している。
(中略)
それゆえ、彼らはこれらのモノが伝達する頭文字やマークや宣伝文句を好んで描くのだし、極端にいえば、それらだけを描けばいいのだ(ロバート・インディアナ)。これは遊びでも「リアリズム」 でもなく、消費社会の誰の目にも明らかな現実を承認すること、すなわちモノと製品の真の姿はそれらにつけられたマークだということにほかならない。