10221735 情報が命令になるとき

北海道博物館で、松前藩が場所請負制度のさいに、和人の居住領域とアイヌの居住領域を一方的に定めてしまったことを知った。和人の居住領域には、多くのアイヌが住んでいるにも関わらず。これはずっとパレスチナで起きていることともつながる都思ったのだけど、なぜそんな一方的な通達がまかり通ってしまうのかという点がうまく想像できなかった。

建築討論のミヤシタパーク評でも書いたけど、私がこどもだったころに近所の公園に突如として「野球・サッカー禁止」と書かれた棒が出現したことがあった。でも、誰もその棒の言う事を聞かなかった。私たちはずっとその公園で遊んできて、いきなり訳もわからない棒の言う事を聞く義理はないと思ったからだった。大人たちも「いきなりこんなの立てて、バカじゃねえのか」と言ってくれた。

でもミヤシタパークではそういった注意書きの看板や掲示物がものすごく大きな力を持っているように見えた。みんながその言うことを聞いている。わたしも、ミヤシタパークでは看板の力には抗えないだろう。

アイヌは、「ここは私たちの土地だ」と考えてすらいなかった。でも、「ここは私たちの土地だ」と主張する和人が出し抜いてきて、いけしゃあしゃあと居住領域を設定し、アイヌに労働をさせた。

 

「ここは和人の居住領域です」という情報を知らされることと、「アイヌはここで居住しないでください」と命令されることは、同じ帰結をもたらすと思うけど、前者のほうが、反発心が生まれにくい。

「ここはサッカー禁止の場所です」という"情報"と、「ここでサッカーをするな」という"命令"の違いはなにか。ここでいう「情報」は「命令」と同じだ。ただし、それが命令であることは巧妙に隠されている。命令であることを相手に気が付かれないよう、「ここは〇〇です」と、さも最初からそこはそういう場所だったのだという既成事実をでっちあげるのが情報。

Posted by satoshimurakami